生きるヨガ ”いのちをいただく”を共感的コミュニケーション(NVC)で伝えてみたら・・

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生きるヨガを  NVCで 考えてみました。



NVC的コミュニケーションのしかたというのがあります。

NVCとはノンバイオレンスコミュニケ—ションです。

つまり共感的コミュニケーションです。

これは、

以前サッチャ先生の講義でも習ったかと思います。

でもね、
NVCで一番重要なのは,自分が自分の本当のニーズに気づくということ。

この場合、動物は友人だから愛したい、という事だと思います。
(これはこのブログのなかの  ”いのちをいただく”ことに関しての食べるヨガ的見方 
 
  の続きで書いているので、興味のある方はその記事も読んでみて下さい)


自分の感じている事をちゃんと言葉にして伝えていいし
いや,寧ろ自分が自分の本当のニーズに気付いてそれを
ストレートに言葉と行動で伝えなくては始ま らないと思います。

そして,その時大事なのは,決して他の人を,非難したりジャッジしたりしないという事です。
決して罪悪感に訴えるような非難をしてはいけないし、心の中で思うだけでも伝わります。

これは、相手に気を使うという事に集中する事より、むしろ
自分の中心から常にぶれずに誠実に言葉を発するということです。



私はどうしたいか,どうありたいかだけを述べ伝えれば良いと思います。

その熱意と率直さに影響されない人がいるでしょうか?

人は,自分が非難されていない時,人の話がそのままストンと入って来るようです。


その人の人生は、他の人が変えられるもので はな く
人はそれぞれ自由意志をいつでも自由に使えるという尊厳がある事に敬意をもつ事だけで充分です。

しっかりと,境界線を引きましょう。

相手の感情の責任を取る事は出来ないし、とってはいけないのです。

相手の感情の責任を取ってしまう事を、共依存といいます。



すべてを与えて下さった神でさえ、その自由意志に立ち入る事はなさいません。
なぜなら愛は強制ではないからです。

愛は、常に自発的であり、愛する事も愛さない事も選べるという状況の中で
本当の魂の二ーズである、自由に愛する事が出来るのです。

ただ、未来を信頼して待っていれば良いのです。
自分の選択で自分の自由を使える事が、どれだけ素晴らしい事かを体 験した人ならば、
誰にでもその可能性のある事は明らかで未来を信じてまつ事が出来ます。

信頼して待つのです。


他人を操作する必要はありません。

自分の事は自分で決めてその行動に責任を持つ事が出来たら、
自由に愛せるはずです。
今、ここで、自分でそれを決める事が出来ます。



人を非難したり、ジャッジしたりしないということが可能なのは、
その人が自分を非難したりジャッジしていない時です。

つまり自分は足りないという恐れがないことです。

そして、自分の感情に責任をもち、自分の事は自分で決められるときです。


自分が神の一部だと 本当に理解できたら、他の生命体も神の一部だと理解できます。
そして繫がりを感じます。そうしたらもう食べたくも、痛めつけたくもなくなるのは当然です。

では、何がそのことを邪魔して感じれなくして”食べてもいい”と思ってしまうのか!?



痛みからこそ,愛を与えられると言う逆説的なお話をします。
その時長い長い間自分が過去のカルマで無意識に行ってきた他の生命体を傷つけた時に(具体的には肉食を無意識に続けてきたこと)、生まれた”痛み”というネガティヴな反応が、その自分の痛みを呼び起こして考え たくない、と抵抗しているだけなのだと、気付いた時には目からウロコでした。
キリスト教の言葉にもあります、

自分の痛みに直面して差し出せば差し出すほど私たちはもっと愛に満ちた人になる。
神と人から恵みを受けているために自分の罪を自由に告白できる人は
より愛に満ちた人になります。



そのためにカルマと言う形で、個々に取り組むべき問題、痛みが与えられているのです。
この痛みは言葉を変えれば、ギフトとも言えます。
私たちがこの固有の痛みというものに対して、抵抗ではなく、与えられたものとして、
進んで自覚していってその無意識の正体に向き合えるようになれば、痛みは自分が作り出した反応にすぎない、自分はその痛みではない、自分は永遠の喜びに溢れた意識であり、今後この痛みの罠から(カルマ)から、出て行く自由がある!と、自分で気付くはずです。



NVCの提唱者であられる,マーシャルローゼンバーグ氏は、
ジヴァムクティヨーガの創始者シャロン・ギャノン女史とのインタヴューでこう語られた
という文章を読んで、私にも当てはまると思いました。

子供への性犯罪でたびたび投獄された囚人のインタヴューで、
なぜ囚人の多くは、子供の頃自分も虐待を受けていたかと疑問に思い、
幼児期の経験について語るように求めると、

その囚人は「自分が経験した恐怖や脅威を誰ともコミュニケーションできなかった事が何よりも恐ろしかった」とほのめかした。

そこで彼はあからさまに質問した。

「あなたにとってそれほどまでに恐ろしい経験をなぜ他の子供たちにしたいと思ったのでしょう?」

すると囚人は「子供の顔に浮かんだ恐怖や恐れを見ると、自分が体験した事を理解できる人間にやっと出会えたと知るからです」と答えたのです。




私の事を少し話します。
子供の頃から両親共働きで単身赴任、生後3ヶ月で他人に預けられた(とても愛情深い乳母です)
私は、”いい子でなければ愛してもらえない”と思い込んで育ってきたので、
自分の感情を自分でも感じないように表現できずに無意識に押しやって来ました。

ですから、今だに実母に対して、感情が湧きにくいです。
うまく、感情をストップさせていたみたいです。

大人になって、主人との間で“さみしい”という事を隠して感情を感じないようにしていた事に気づきそのことを自分に許した時、こどものようにおんおん泣いてしまいました。

それに気づくまではずいぶんと、主人を責めたりコントロールしようとしたりして、
それに対して主人も私の話に耳を傾ける事を嫌がっていました。
その結果そういう自分に罪悪感を感じて疲れるーーというパターンの共依存に陥っていました。

自分のどうしようもない感情の責任を、訳が分からず、主人にとってもらおうとしていたようです。

でも、誰も人に幸せにしてもらうなんて事は出来ないんです。

自分の、恐れ、感情と出会った時、初めて

自分が自分でこの反応を作り出してきたんだーー

と分かったのです。

それを、見なければ手放せない。
同一視している限りは・・・と何度もサッチャ先生には聞いていましたが、
はっきりとは
意味が分かっていませんでした。

何度も何度もくりかえし、被害者意識的になるのはどうしてだろう?

誰も傷つけてはいないのにどうして傷つけられるのだろう?

と本気で考えていました。

この長い長い輪廻のなかで、たくさんの生命体を犠牲にして、暴力を奮い続けてきたカルマによる過去の印象(サンスカーラ)によって、さらに、ネガティブな反応を自分が引き出している仕組みが見えたのです。
ごめんなさい。もうやりたくないです。

自分で自分の事は責任とって行動したいです。



そして、私たちには安心して自分のことが語れる仲間が必要だということです。
それが、先に例に挙げた投獄された囚人が必要としていたニーズなのでしょう。

そのために、まず、自分ができること。
まず、人と繋がる前に
個人的な神との関係を築くこと。



そしたら、

永遠の魂であるアートマーのほんとうのニーズ、
喜びの中で与え続ける事が出来るんじゃないかな。

本当にこの世界は神が必要とされるように作られているんだな
とおもいます。


どんなに、ひどい状況であろうと、幸せの絶頂であろうと。
今現在、罪に服役中であろうと、罪を犯している最中であろうと。

同じ様に神は全ての生命体を愛している。
なぜ?そう言えるかは簡単です。

この世界で自分の意志で息をしてる人がたった一人でもいるでしょうか?

答えは、そんな人は、一人もいないという事です。

まあ、当たり前の事っちゃそうなんですが。

この事に、深く気づくと.ええエーーーという事になるんです。
私何もかも自分でしてたと思い込んでたけどビッリした!になるんです。



意識的に呼吸をとめる事は出来たとしても、生まれた瞬間から死ぬまで、自分で呼吸を自分の意志で行っている命なんか
一つも存在しないんです。

みんなに呼吸は与えられている。
愛で。
食べ物も、太陽の光も、全ての関係も。


深く、神と関係している事を実感する。

つまり生きるヨガです。

そうすると、誰が言ったか知りませんが、毎日が祝祭です。

自分は永遠で、喜びにみちた存在だと、実感するまいにち。
毎瞬間、神から与えられた命を通して、生き続けている驚異。
毎瞬間、神とだけ関係している事。ならば、私も与えたい。
お返ししたい。

そして、全生命体が、私と同じ固有のかけがえのない存在である事。


以前は、「神が愛せない人に、人は愛せない」という言葉にそんなのきれいごとだと思っていました。
隣の人が愛せないような人に、神なんか愛せる訳ないと決めてかかってた。
まず、隣の人だろ!って。
や、でもほんとは逆なんです。
最初に神を見出す必要があります。
神を愛せないと、決して隣の人は愛せない。
今は、その真意が理解できます。

簡単です。
まず隣の人から愛する方式にしたら、またその次の人も、その次。。。と終わりがないんです。
でも、神を愛したら、神を通してすべての生命と繋がります。
一発です。


神との関係を、わたしが実感を持って深めていったときに、神とつながり、
その神にわたしと同様、みんなもつながっている。
初めて全生命に対する愛と敬意を実感する事ができるんじゃないかと感じています。

ここに、やっと生きるヨガの実践があります。



それを追求していくと、自分の中の美しさとか、自然とか、素直とか喜び、感動、
または、汚いものとか、活動とか、対峙する事とか
全てに意識的になってアーティスティックな生活になってくると思います。

これはアートな暮らしだと言わざるを得ませんね。

追求していきましょう。



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”生きるヨガ”

わたしの生きるヨガは、こんなのだというのがあったら教えて下さい。



私たちひとりひとりが、そうなれたら
生きるヨガの実践者に
なれたらいいと思います。

一人一人が
この世界の
アーティストです。

たのしい!!


とっても、創造的でわくわくする事という意味でね。


最後に、私の敬愛するラーダナータスワミの言葉で締めくくりたいと思います。

まー私ってどうしても、じゃあ、きっと私のせいね、と被害者意識になることが多いんだけど。
そこで、まず立ち止まって考えたい、とても深くて素敵な言葉です。

「自分のいたらなさを嘆くのではなく、
 自分の行為に、いかに愛が足りないか!を考える。」

ただこの言葉だけを、いつも深く胸に抱いていたいと思う。
そのことを表現するアーティストになりたいです。


ヤムナ











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by govindasyamuna | 2014-08-25 17:27 | 食べるヨガ~生きるヨガ
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ヨガってアサナだけじゃない、食事、瞑想、哲学、音楽を通してバクティヨガを日々の生活に取り入れましょう。生きる力を感じて内面はエキサイトして、外見はクールに生きるお手伝をします。


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