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さだまさしさんの”防人の詩”をヤムナ流に理解して言葉にしてみました




先日思い出したことがあります。



かなり昔、私が二十歳の頃だから、今から30年ほど前の話です。

さだまさしさんの『防人の詩」ってご存知ですか?

彼は、日本人の情緒あるいは仏教感を、美しい日本語と、メロディーと、声と、おしゃべりで伝えられる
素晴らしい才能を持った方だと思います。


今日は、この詩を、ヤムナの勝手な解釈でお話ししてみたいな、と思います。

まずは詩です。


防人の詩   さだまさし

おしえて下さい
この世に生きとし生けるものの
すべての命に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
風はどうですか 空もそうですか
おしえてください

私は時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いていく悲しみと
病の苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と

答えて下さい 
この世にありとあらゆるものの
すべての命に 約束があるのならば
春は死にますか 秋は死にますか
夏が去るように 冬が来るように
みんな逝くのですか

わずかな命の きらめきを信じていいですか
言葉で見えない ”望み”といったものの
去る人があれば 来る人もあって
欠けてゆく月も やがて満ちてくる
なりわいの中で

おしえて下さい
この世に生きとし生けるものの
すべての命に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷もみんな 逝ってしまいますか

海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷もみんな 逝ってしまいますか



マドゥに言ったら、暗すぎる、と却下されたのですが。
私はそんなに暗くはないと思います。

ただ、この質問に答えるとしたら

海は死にますか
山は死にますか
風はどうですか
空もそうですか・・・

答えは

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五大元素



五大元素(つまり、この物質界を構成しているもの)=土・水・火・空気・空間で作られているものすべて、私たちの肉体を始めとして全ての物質的なものたちは皆死にます。
海は 水
山は 土
風は 空気
空は 空間(エーテル)
です。

現在、日本でも流行っておりますアーユルヴェーダなどを勉強していらっしゃる方は、物質の五大元素のことはよくご存知と思います。

春は死にますか、秋は死にますか・・・
春夏秋冬、つまりは時間のことですね。カーラ(時間)といいます。
季節は去来しては過ぎ去っていきます、つまり時間も死にます。
というか、時間によって死がもたららされます。
時間こそ死の権化と言えます。


そして心は死にますか。。
はい,死にます。
心も物質でできたエネルギーなので、一時的にあらわれては消えてゆきます。
  
女ごごろと秋の空なんて、うまく言っていますよね。心は、コロコロ変わります、変化しています。

ということで、答えは,はいこの世界にあるものは全て死にます。



でもねつのキーワードがあって、


生きる苦しみ
老いる悲しみ
病の苦しみ
死にゆく悲しみ

ブッダが出家するきっかけとなった、4つの門で見たものです。
生老病死、避けることのできない
すべての命に与えられたものです。
ヴェーダでは、この生老病死が何度も何度も続いていくことをサンサーラ(輪廻転生)といいます。

では、このサンサーラを超えるにはどうしたら良いのでしょうか?

この
生老病死のくだりのあと

『現在(いま)の自分と、といっています。

この言葉は、とっても重要です。

生老病死という体の宇宙を生きている存在にとって、唯一、”命”という永遠性に出会えるドアは、まさに”今ここ”しかないんです。

”今ここ”の永遠の命のきらめきを、クリシュナ(神というすべての喜ばしいものの源)につなげたら、この世界で生きていても、もう大丈夫。何の心配もありません。

どういう意味かって?
つまり永遠に死にません。

”今ここ”に、生きることができれば、命が永遠なのではなく、命のきらめき(つまり意識です)、それこそが永遠にあり続けるものだ、と気付き続けれるからです。過去にも未来にも行くことはありません。永遠の、今に居続けることができます。

しかも。。。この命のきらめきを毎瞬間与えてくれているのが”神”であり、それが”愛”なのです。
何一つ条件のない、すべてのあらゆる生命に与えられている”愛”です。
だからこの防人の歌の中にある中で”愛”は死にますか?
と問うていますが、神の”愛”だけは永遠に死なないのであります。

そして3つ目のキーワードは望み」です。
魂の、栄養は望みであると言っても、過言ではありません。

なぜなら、人は望みがないと生きてゆくことはできない存在ですから。※注1
このことに、反論する事がどうやってできましょうか!?

彼は,ここで言葉で見えない望みと唄っています。
望み、言葉で見えない”望み”を、
私たち一人一人がこの短い人生で自分で見つけて、育んでいくものかな?
と思います。



でも、言葉に見えない望みを、どうやって見つけていくんだろう。

それは、この上ない喜びの源(神)に、自分という存在の全てを
与え続けることのなかに見いだせるのかもしれません。

または、その方向性をめざすこと自体、それを”望み”というのだと、わたしは思います。



ま、言葉では見えないものなので・・・頭で考える概念ではなく、直接に個人的に感じて体験されるものなのでしょうか?
しかも、外に探すのではなく、意外にもに自分のなかにもともと備わっているものだったりします。



それに ”気づく” ことこそが、ここに生まれた訳ですね。




次の人生のために。
   


ヤムナ






※注1  興味のあるかたは、ヴィクトール・フランクルの
     『夜と霧』をお読みになることをおすすめします。






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by govindasyamuna | 2014-08-26 09:05 | ヤムナのある日のブログ

ヴェーダは美しい『物質宇宙の創造の過程』その2

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インドで有名な神は

ヴィシュヌ、シヴァ、ブラフマーの3大神です。

真ん中が、ヴィシュヌ、向かって右がシヴァ、左がブラフマーです。


この宇宙の創造を司ったのが、ブラフマー神です。
実際、ヴィシュヌのみが根源の主ですが、また主ヴィシュヌは、この世界の維持を司ります。
シヴァ神は、この物質宇宙の破壊を司ります。

また、この物質界は、トリグナという三様式(モード)に支配されていて、
徳性(純粋性)の様式を支配するのが、ヴィシュヌ
激性(結果を求めて活動すること)の様式の支配がブラフマー
無知(無知)の様式を支配するのがシヴァともいわれています。

『物質宇宙の創造の過程』その1で、前回お伝えしたように、
ブラフマー神は、全く何もない世界にヴィシュヌの臍から出た蓮の花の上に生まれました。

どうやって。宇宙を創造したら良いか分からず、考え込んでいると、ただ1度だけ、「タパ(苦行)」
という2音節で出来た言葉を耳にしました。

先日、バヌスワミに、”タパ”の意味について、もっと深い考察をいただきました。

タパとは、一般的には苦行ですが、ここでのオリジナル、つまり原初の意味は、至上主を崇拝するという事なのだそうです。
 ですから、タパとはバクティに他ならない。
つまりタパ(苦行)とは、もともとバクティ(神を愛すること)という意味だったのです。

なーーんと、ふかい・・・。
だから、ちょっと苦行と聞くと嫌々ながら我慢してやるイメージが強いけれど、
きっとよく物事を悟っていない魂によって、
少しずつ意味が変化していったのでしょうね。

漢字の“苦”の字のイメージのせいでしょうか?
自発的に、喜んでなされることこそ、本物の”タパ”なのです。

しかし、それは、決して軽いものでもなく、
お金を出せばインスタントに免許がもらえるというような
簡単に手に入るものではないとは思いますが。


ところで、
A.Cバクティヴェーダンタスワミプラブパーダがバガヴァッドギータ—の第13章6・7節で

この世界の創造の過程を解説して下さっているのでここに載せておきます。

非常に興味深いです。つくづくヴェーダはもうすでに、
今の科学が解き明かしていることを5000年前から言っています。
というか、今の科学が、そのことを証明していっている気がします。

世界の構成要素は次のように理解されます。最初が、土・水・火・空気・空間です。

これが5大要素(マハー・ブータ mahä-bhüta)です。
次に、偽の自我、知性、物質自然界の三様式という現われていない様相があります。
そして、知識を得るための5つの感覚、すなわち目、耳、鼻、舌、皮膚。そして機能する感覚、すなわち声・足・手・肛門・性器があります。
そしてその感覚の上に、体内にあって内なる感覚とも呼べる心があります。
つまり、心を含めると合計11の感覚があるということです。

そして、5つの感覚の対象、すなわち嗅覚・味覚・姿・接触・音があります。
そしてこの24の要素の集合体が活動の場と呼ばれます。

この24の対象を分析研究することで、活動の場を正しく理解することができます。

次に、濃密な肉体のなかにある五大要素が相互作用として現われる望み・嫌悪・幸福・苦しみがあります。
生命の兆候は、希薄な肉体(心・自我・知性)の表われである「意識」と「確信」として現われます。

これらの希薄な要素は、活動の場のなかに含まれます。

五大要素は偽の自我の濃密な表われで、それはさらに専門的に物質主義的観念(ターマサ・ブッディ《tämasa-buddhi》・無知の知性)と呼ばれる「偽の自我の最初の段階」を表わします。

さらにこれは、物質自然界の三様式という表わされていない様相を象徴しています。

物質自然界の表わされていない様相をプラダーナ(pradhäna)といいます。



このあと、プラブパーダは私たちに、

この活動の場として与えられた”肉体”は6つの変化をして、生まれ、育ち、とどまり、副産物を作りだし、衰えはじめ、最後に消滅するので、一時的で物質的なものだと教えてくれています。

それに対して、”意識”として現れている魂は、永遠で精神的あると述べています。
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by govindasyamuna | 2013-02-09 11:00 | ヤムナのある日のブログ

ヴェーダは美しい『物質宇宙の創造の過程』その1




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ヴェーダのお話は、なぜこんなに
聞きたくなるのか?
なんで、こんなに魅了されてしまうのか?不思議です。

一つの理由はとても ”美しい” からだといえます。
たくさんの、叡智と精神的な味わいにあふれています。
私たちが、この人生で求めている、本当の味わいを余すこと無く与えてくれます。
そして最も古い言語と言われるサンスクリット語の音の響きは、柔らかくとても高い波動を持っています。

今日はその中でも、断トツ美しいと私が思う、物質宇宙創造のお話の一部をご紹介したいと思います。


この物質宇宙を顕現させるとき、根源の神は自ら手を下すことはありません。

創造を直接司るのは、ブラフマー神の仕事です。
ちなみに、今のこの私たちがいる宇宙のブラフマー神には、顔が4つあるそうです。

他の宇宙には顔がもっとたくさんある、ブラフマー神がいたりするそうです。
えっ!?おもろいけど、そんなんでいいの?って感じですよね。

インドの道ばたでよく見かけるポスターで、顔が4つあるのが、ブラフマー神です。
彼は、実際自分では何も作れません。いうならば、天才バカボンのパパと同じです。

それは、庭師のようなもので、与えられた材料を使ってデザインすることが仕事です。

材料を生み出すのは根源の主であるヴィシュヌで、主ヴィシュヌ自身は生まれることも滅することもありません。
始まりも終わりも無く、永遠にあり続ける愛と叡智です。
いうなれば、主ヴィシュヌが社長で、ブラフマー神はこの宇宙を任されている部長のようなものです。

そして、あらゆる宇宙はそのマハーヴィシュヌの呼気と吸気のたびに、現れたり消えたりしています。

前置きはこのくらいにして、今日のお伝えしたい節です。
今日はシュリーマドバーガヴァタムという5000年前のヴェーダ教典の、第3編8章18節を、バヌスワミが解説して下さったクラスをもとに、お話しさせていただきます。

シュリーマドバーガヴァタム(3−8−18)

     「ブラフマー神は、主ヴィシュヌの臍から出た蓮の上に生まれました。
      その上に座って,こう独り言を言いました。
      私は何者なのか?
      この蓮の花はどこからやってきているのか?
      何か下の方に、支えがあるに違いない、と。」


このブラフマー神が、宇宙創造の始めに考えた質問こそが、
現代の哲学者にとっても、私たちにとっても人生の究極の問いではないでしょうか。
  
私たちは何者で、どこからやってきたのか?

ブラフマー神は、茎をつたってヴィシュヌのおへその方に行きましたが、結局その根にたどり着くことはできませんでした。
それは、我々人間の個人的努力だけでは、主に近づくことはできないということです。
そこで、ブラフマー神は『タパ』という言葉の啓示を受けます。
タパとは苦行という意味です。
ブラフマー神は、知性に富んでいたので、自らの限界を知ることが出来ました。
だから、啓示を受け入れ、元の場所に戻って、心を対象から引き離して百年もの間、主ヴィシュヌを瞑想しつづけました。
そして、真の供給者、そして、維持者である主ヴィシュヌこそが、感謝の対象、讃えられるべき唯一の存在であることを理解しました。

そうして、やっと主の慈悲のおかげで、ブラフマー神は、この物質宇宙の創造を
始めることが出来たのです。
ブラフマー神でさえ、主の慈悲がないと何も出来ないのですから、私たちは言うまでもありませんね。
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by govindasyamuna | 2013-02-06 09:30 | ヤムナのある日のブログ

『重力ピエロ』を観て〜暴力とsexについて考えました〜


1年前に、うちでゆっこと森淳一監督の『重力ピエロ』という映画を見ました。

読後感というか、観後感つまり見終わったときのあまりの爽快さに驚き、
どうしてこんなにすっきりしたのかと、
次の日は一日そのことを考えてました。

ご覧になった方はご存知だと思いますが、
最後は、自分の実父に当たる男を、主人公が放火した火の中で、すさまじくバットで殴って殺すという内容でした。
(普通、私は、バイオレンス映画は全く見ません。嫌いだから。)
そして警察に自首することもなく、元の生活を続けているという、ちょっと聞くとありえない話なのですが。

暴力とセックスの話なんだか?いや違う。
仲のいい家族の美しい話なんだか、いやそれでもない。
社会派の話なんか?いや、全然誰も法によって裁かれてはいない。

なんか、すっきりした。
誤解を恐れずに言うなら、主人公が男を殴り殺してすっきりした。

なぜか?
その映画は、ただ、私の中にある、暴力やセックスに対する、私のきわめて個人的な感情、それもネガティブな嫌悪感をみごとに昇華してくれていたからだ。

この世界には、本当の悪も善もないんだな〜とわかった。
全て自分の心が作り出している二元相対によって、自分で罪悪感を作り出して苦しんでいる。
私の悪に対する、自分のネガティブエネルギーが、あっ、それは私の思いが作ってるんだ、と気づいたんです。

暴力・セックスはずっとそこにあるのだが、それと私の間にある、
何とも言えない自分の感情が生み出した世界、
自分が抱いているいや〜なイメージ
すべて社会通念 によって自分が作り出した
暴力、セックスはいけないことという思い込み。
それらををみごとに、浄化してくれた。

間違えないでほしい、私は暴力を奨励しているんじゃない。
この映画の成功しているところは、そこなのだ。
だから、こうこうで、暴力は時と場合によっては使っても良いんだとか言う結論じゃない。
そんな、短絡的な話じゃないよね。


そこには、反応する自己へのさらに、それを自覚しているという意識が欠けている。
私たちは、つねに自分の主体的な反応をしていると思い込んでいるだけで、実は育った環境や親からの刷り込みによってもっと言えば俗的な通念の思い込みの影響下で反応しているに過ぎないんだ。

徹底的に、自己を自覚することですべての反応は、100%自分が作り出していることを認識したら、
ついには、私たちはより良い選択をしたくなるという自由意志を行使するしか無くなる。



全ての映画、物語は、常に、ここであって、ここではない何かを語らなくてはならない。
私たちは、そこにながれるエッセンスを汲み取らなければならない。
それが、作リ手と見る側の、会話の成立という醍醐味なのだ。会話をしなくてはならない。

5000年前にかかれた、バガヴァッドギーターという聖典を思い出します。
戦士アルジュナは敵方に、自分の従兄弟や親戚、先生などがいることを見て、戦えないと言って座り込んでしまった。
そこで、至上主として讃えられているクリシュナは、アルジュナに向かって、皆、永遠の魂なのだから、戦えという。
どちらにせよ、お前は物質自然の影響によってつき動かされ、自分の性質に応じた活動をすることになっているのだ、と。
では、バガヴァッドギーターは、戦争を認めているという読み方をする人もいるかもしれない。
そうではなくて、それは、私たちは誰も皆、この変わりゆく世界の中で、自分を身体だと思い込んで『自己同一視』しているよ。
そうではなく、自分と身体は別物なんだ、私は、永遠の魂で、感覚や、心,思考が移り変わっては去っていくのをただ観ている人なんだ、と教えてくれている。

ただひたすら、私の中にある、自分で何回も反応することで培ってきた、暴力とセックスに対する“印象”(過去のサンスカーラといいます)が、自分が反応して作り上げてただけなんだと、自覚できたことで、消えていったのだ。

自分が身体であるというサンスカーラによる、自己同一視から目覚めるためには、
まず本当の自分が、ただ観ている人であり、それは大いなる存在=命の源に生かされている
ことを知ることから始まる。

いままで、自分の足枷となっていた、罪悪感、おも〜〜い荷物が外れたんだ。なんと、自分が自分で足枷をはめていたんだ!!!

たしかに暴力はよくない。よくない。ただ、それだけでいい。
でも、そこにネガティブな感情はいらない。罪悪感はいらない!!
あったら、しょうがないね、で終わり。でも、そこにも、ここにもあるんだから。
今後も、決して無くなるものじゃないんだから。

爽やかに言おう!
私は、暴力と、愛の無いセックスは嫌いよ、と。
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by govindasyamuna | 2013-01-30 10:58 | ヤムナのある日のブログ

境界線の概念は“自由に愛する”ことの必須条件です①

雨が降ってます。
春を待つ雨ですね。
この雨は恵みの雨。
もうすぐたくさんの命が、再び息をふきかえす 慈悲の雨 です。

私たち人間には精神的な命の慈悲の雨も必要です。

それが、ヴェーダ教典 シュリマドバーガヴァタムや聖書によってもたらされています。
ありがたいことです。

慈悲の雨

あと7日間で死ぬことが分かっている王の質問

『すべての人間の、特に死ぬ間際の人間の義務はなんでしょうか?』の答えは。

『一切の不安から解放されたいと願う人はだれでも、一切万物の最高の維持者,全ての困難を取り除く方,全生命のハートの中に偏在して私達の人生をすべてを見ている、パーソナリティを持っている神についていつも聴き、讃え、愛を持って思い出さなくてはならない。』

                         シュリマドバーガヴァタム2-1-5

                      
サッチャ先生のクラスから引用します


過去を忘れろ、未来を心配するな。今目の前にあるもの、この瞬間にこそ進むべき道がある。考えるのでなくかんじる。体験する。今この瞬間を感じれば,成長、前進することが出来る。毎瞬間を新鮮に見ることが出来る。大いなる命の源とつながりを感じると、命があふれてくる。

ヨガの焦点はどうやって心を心をコントロールするかです。
(しかし,実際に心をコントロールする事は不可能です。なぜなら,私たちには肉体が与えられていて,その肉体には心という思考装置が設置されていてその仕事を奪う事は死に値するので、エゴはそれに激しく抵抗します。よって,本来の心を克服するという意味は,心をコントロールしようとするのでなく,心を友として,ただ心の仕事をあるがままに観て受け入れ,心と真の自己は別のものである事に気づく=心と自己を同一視しないという訓練こそが必要になってきます。)
私達を遮っているのは思考の連鎖です。過去を思い出したり、未来に期待したり。遮られた結果、自分自身とつながってない。命を感じるということを
頭で考えてばかりいる
いつもこの瞬間に全てがある。それは直接体験出来る。

将来を心配している時は、結局は過去の経験から心配している。心に抱くことからそれが将来に起こる。もし今この瞬間に焦点を当てていれば、毎瞬間、フレッシュに体験することによって、とても良い未来が具現化出来る。人生のどんな側面もよりよくなっていく。人も自分もジャッジする必要がなくなる。

真理が存在する。それはこの瞬間を選ぶという選択肢があるということ。私達は真理の中に住んでいる。偽りのマインドが作り上げた仮想現実のなかに生きるという選択も出来る。その世界の創造主は私だ。その選択はいつでも出来る。神はそのことに決して手は出さない。

いつも選択出来ることのみが真実。という意味は、私たちは過去や,未来に思考がとらわれて、偽りのマインドが作り上げた仮想現実のなかに生きるという選択も出来る。または、今、この瞬間を絶え間なく選択することも出来る。どちらも自由。そしてその練習が毎朝のマントラ瞑想や観ることで実践出来ます



幸せを感じられなくて苦しいとき、仕事をコントロールしようとしているとき、嫌なものに抵抗している時。逆にそのフィーリングを十分に感じようとすると、結果的に面白いことが起こります。

嫌なものを十分感じようとする。

そうすると結果的に嫌なものが消えていく。

意識的に嫌なものを感じる。それを支配しようとしない、抵抗しない。

受け入れることなしには何の変容も起こり得ないから。

他人または自分に悪い影響を与えた振る舞いが、人間的な弱さ、または不完全さから出たものであることを自覚し、

その振る舞いがもたらす結果を、それがどんなものであれ、

引き受ける覚悟が出来た時《自己責任の原則》

そのときこそ、あなたは自分を完全に受け入れたと言える。

自分にとって、最も受け入れがたいことを十分所有したときとも言えます。

心の傷を癒すことがなぜそれほど素晴らしいかと言えば、
心の傷を癒すことにより愛情面で〈独立〉するよりも〈自立〉することが
可能になるから。
愛情面で自立すると、私たちは、自分が何を望んでいるか、
自分の本当のニーズが聞こえるようになります。

どうすればそれを実現することが出来るかが分かるようになります。

今の瞬間には常に二つの選択がある。

自分のマインド(エゴ)に従っていくか、神が喜んでくれるような道を選択するか。人生とは常にこの選択をし続けていくこと。

たとえ、からだがぼろぼろになって動かなくなっても 、外的に不自由でも、意識だけがあれば、自由に選択できるんだよーーー。

そのうえで、許しは私達の仕事じゃないんです。
もう既に私達は毎瞬間許されて生かされてるんだ、ということです。
だから、人が人を許すとか,許さないとか、それは上から目線。神の仕事です。

今日の節でも書かれています。

一切万物の最高の維持者,全ての困難を取り除く方,

すべての困難を取り除くのは神の仕事だと、はっきり。

つくづく、境界線の概念は重要。
境界線があると自分の限界を知ることが出来る。
例えば、許すことと、怒らないことは違う。
自分の仕事じゃないことばかりを(過去起こった出来事とか、未来の心配)コントロールしようとするから欲求不満になる。
許しは私達の仕事ではない。

一方、怒りは、私達に与えられた感情のギフト。
境界線が侵された時適切に使うことが出来る。怒っていいんだよーーーー。
自分の感情(反応)の責任は自分でとるしか出来ない。

その感情にしっかり向き合い、責任を取ったあと、許しは内側からやって来る。
それは神の仕事。癒しともいえる。
なぜなら、今日の節ではっきり全生命のハートの中に偏在して私達の人生をすべてを見ていると言ってくれている。
あークリアだわ〜〜。

この“怒りと境界線”については、次回シュリマドバーガヴァタムの別の節を引用して、もう少し突っ込んでお話ししたいと思います。

私達の病は、神をわすれたことにあるんじゃないかな。
それは、神と自分の境界線を曖昧にしてすべて依存して自分のしていることや、自分の感情に責任を持てず(自分で自分の感情を無視したり、騙したりしている=それは感じることを恐れているからにすぎない)
他の誰かに(究極的には神に)責任を取らせようとしている。

運命を呪うのはそういう態度。

そうじゃなく神の視点に立つ、ということは出来る。
なぜなら私達は神の一部だから。



そして、今までの視点はギャーナ的(哲学的思索)なものまたは経験的なもの、それはアプローチとして使う手法であり、決して目的にはなり得ません。

バクティは、それ自体が方法でありながら、目的でもあります。

というのは、私たちはどこへ向かっているのか”それは神の愛(プレマ)である”という、最高の目的を示さない限り決して誰もそこにたどり着くことが出来ないからです。
それは、行く先の無い列車に乗っても、どこにもたどり着けないということです。

つまり、私たちは、毎日、山手線に乗っているようなものです。
死ぬたびに体を取り替え、生まれ変わって、生老病死という輪廻を繰り返しているに過ぎません。
たまたま新宿に降りることもあるかもしれませんが、他の駅より少し大きくて賑わっているだけで、他の駅と実質的な違いは何もありません。

大切なのは、そこから出ることです。

人生にもっと、別の価値を見いだすことです。

永遠で、喜びに満ちた自己に出会い、神の愛に向かって生きることがバクティの目的です。
それは、山手線を抜けて、飛行機でハワイに行くようなものです。
じゃあ、チケットはどこで買えるでしょうか?

その航空会社の窓口が、ヴェーダであったり、聖書であったり・・なわけです。(他にもあるかもね。あったら教えて下さい)

バクティの真髄である
パーソナリティを持っている神についていつも聴き、讃え、愛を持って思い出さなくてはならない
 (これこそが、方法であり目的ですが)

もっとも甘い、バターを作るとき表面に出来る醍醐味の語源となった醍醐を味わえるのであります。

次回はこの醍醐味と境界線のこともっと突っ込んで、バガヴァッドギーターやシュリマドバーガヴァタムから、一緒に読んでいきたいと思います。
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by govindasyamuna | 2012-02-25 10:11 | ヤムナのある日のブログ

神様と私、関係あるってすごいことだね

昨年中はよく中野平和の森公園にお散歩にいきました。

ヨガをしたり唄を唄ってみたりもしています。

朝は、たくさんの清々しい精神的エネルギーに満ちているので(プラーナといいます)深い気づきを
もらえます。

例えば、対立しているような問題があって、どっちのほうが、より傷ついているとか、悶々と考えたりするけど
ホントは全く関係ないよね。

それぞれの人生で、自分はどうやって自分を幸せにするかだけが全てです

でも、そんときこそ、神様のたすけが必要なんだってことに気づいてる人はほんのわずかの人なんだろうな。
でもそういう人といると、私まで影響されて幸せになる。

そういう人になりたい。だから、クリシュナに祈る、祈りたい、祈るのがたのしい、祈るのが苦しい、そばにいてくれるときも、感じれない時も


幸せになる為になぜ神様の助けが必要か、というとね。

自分だけの力で幸せになろうとするということは

自分じゃない別の何かにならなきゃいけないから。

それより、とことん自分のちっこいこと、無力感、自分は自分が思ってるほど何もできなんだと、そこに向かう
あるがままの自分にむきあってみる。

そうすると、このままでいいんだ、
ナーンだそんな簡単なこと忘れてたって気づくよ。
今のまま、そのままの自分、それ以上でも以下でもない、
何も飾る必要も無い、なんの形容詞もいらない自分に会える。
そしたら、それだけでもう、幸せなんだ。

泣いたり苦しんだりするかもしれないけど、向き合うのは自分しかできない。

これをやるかどうかは、私たちの自由です。

ううううーーじゆうにしてくれている。その人はいったい誰なんだ。

選ばしてくれているーー。なんだ生かしてくれているーー。
自分で意識して、息してる訳じゃないし。
食べた物も、何も努力も無しに消化してくれている。

なんなんだーー。

凄いことがこの体のなかで起こっているーーー!!

この、苦しいーーーとか、
生きたいーーーとか、
愛したいーーーとか、
どうやってこの感じあるのよ??

私の細胞の奥にある意識とその源が今、会話してる感じ。
私の意識と、その命の源との深い深い会話の実況中継。

つまり、言いたかったのはですね。

このちっこい自分をそのまま、あるがまま受け入れる為には!!!
いつも、その命を供給してくれている、すべてを支えてコントロールしている、
でも私の自由意志だけは決してコントロールしない神様を、忘れない、無視しない。

関係があることを忘れたくなくなる
いつもしぜんに祈りたくなります
忘れるのもったいなくなって来るってこと。

神様と私、関係があるってすごいことだね。
忘れないでいたいなあ。
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by govindasyamuna | 2012-02-25 01:56 | ヤムナのある日のブログ

ヴェーダは美しい『物質宇宙の創造の過程』その3

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まだブラフマーの絵だけだよ〜
想像して下さい
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by govindasyamuna | 2011-11-30 11:24 | ヤムナのある日のブログ

ヴェーダは美しい

どんな仕事をしても、

私の(つまりエゴ)が少しでも入ると、
感傷的=(センチメンタルということ)になる。

それはつまり、感情に支配されることになる。

純粋に、神様の為に、当然のこと、義務として、しかも愛と感謝を込めて行えば、正の感情であれ、負の感情であれ、感情を使って、感情豊かに、エネルギッシュに生きることができる。それがヨガだということ。


だから、感情を押し殺したり、ごまかして感じないようにして、

常にピースを乱されないようにすることに力を注ぐんじゃなくて、

自分じゃなく、

どうやったら、神様が喜んで下さるか、に徹する。

それを、模索するだけのこと。
ただ、視点を変えるだけ。


古代ヴェーダのマハーバーラタの中の
バガバッドギーターは5つの主題を扱っています。

 ①イシュワラ(至上主)
  ②ジーヴァ(生命体・我々のこと)
 ③カーラ(時間)
 ④カルマ(活動とその反作用)
 ⑤トリグナ・徳、激情、無知(物質自然=プラクリティの三様式の影響)


自分はこの体じゃないと悟ったとしても、じっとはしていられないから、なんかしなきゃならない。

だから、イシュワラとジーヴァの関係を、理解する必要がある。

ただ、神様がどんなに素晴らしいか、どんな風に我々を生かして下さっているのか、
忘れないように、毎日聴きたい。

なぜなら、この体も音で出来ているから。

聴くことがすべてのはじまり。
はじめに言葉ありき。
すべては、波動から生まれている。
量子力学の世界でも証明されている

科学です

そしてその波動はヴェーダに始まる。

OM(オーム)の、音から始まり、それはヴェーダにあらわされた。

ヴェーダは美しい

ビシュヌのお腹から、蓮が伸びて、その蓮花の花の上に創造を司るブラフマー神が生まれる

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by govindasyamuna | 2011-11-08 22:44 | ヤムナのある日のブログ

愛さずにはいられないんよ

ついに大切なことは 熱烈さ かなと思う。

たとえば、座って ”無” を瞑想しようとしても、ほんわかしてて悟れるもんじゃないだろうなという気がする

今流行の、いわゆる、自分を幸せにするスピリチュワルなワークも、本気かどうかで結果は異なって来るだろう

私なら、
神様だけを熱烈に愛していけたらかっこ良いけど(できんからゆっとんよ)。

そこで、自己満足じゃなく、自己完結したい。
となると、常に時空を超えて、新鮮な今の命に呼吸して生きることになる。

私の先生が言われてた言葉を、思い出します。

弟子が質問した、
神を愛する為には何が必要か?      望みが大切です
別の弟子が質問した、
神を愛する為には何が必要か?      貪欲に求めることです
また、別の機会に誰かが訊いた
神を愛する為には何が必要か?      気が狂うほど熱烈にもとめること

この3つは同じことを言っている。

例えて言うと、3つとも水なんですけど、水の温度が違う。
20℃、くらいと、50℃と、うーんと99℃のことかな。
唯一、沸騰した水だけが、お米をご飯にすることが出来る。

沸騰する前に、やめてはいけない。

本当の味を、味わえないまま人生を終えることになる。

まず、自分の人生を沸騰させるに値することを見つける。
そしたら、沸騰するまで、決してやめてはいけない。

やめたくなるなら、どこかに問題がある。



もうひとつ 

人や外的なものに依存したらコントロール欲が生まれ、
自分や他人の自由意志の稼働域を、自分で小さくしてしまう。

選択肢が少なくなるし、なんか窮屈感を感じる。

神様に依存したら、与えられているという実感がきて、全て神がコントロールしてるけど、私の自由意志だけは決してコントロールしないとわかる。

視点が変わるだけで、ほんと、自由になれる。不思議だけど、是非試してみて。

だから、選べるスペースができて、うれしくて、
純粋にアートマーの本質(永遠性、自分の本質を知っている知性、めっちゃうれしいこと)に基づいて、
ルンルンと選択したくなる。

だって、私たちの体は土、水、火、空気、空間という5大要素(粗厚体)と、目に見えない微細な体としては、心、知性、エゴでできてるから、心に空間スペースないと無理!
それはストレスだわ。 動くってことが本質だから。スペース(空間)は動くために、愛する為に必要


どうしたって私は死ぬんだよって、
この体は一時的な乗り物にすぎないんだよって、
わかってるのに、忘れようとして苦しんでる。

じゃなくて、

痛みや喜びを観てる意識こそが私の体を貫き、
永遠に走り続けている実態なんだと気がつけば、恐れは無い。


他の生き物の命の痛みも愛も感じられる。そしたら泣ける。


アートマーの本質は
じっとしてはいられない。
活動せずにはいられない存在、
つまり、愛(=action )さずにはいられない 
なんだか、大好きなレイ・チャールズの唄みたいだけど。
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by govindasyamuna | 2011-11-08 21:31 | ヤムナのある日のブログ

”神さま”って? なんなんだろう・・・?

神さま・・って、なんなんだろう。
これこそが、つまり、自分はなんで生まれてきたのだろう、という人生最大の問いと
リンクして来ること、なんじゃないかな?

生老病死

みんなに同じように与えられた条件
そして、まったくいつ来るか、自分ではコントロールできない、予想不可能な事

私の父は69歳で肺がんで亡くなりました。
定年後は、悠々自適、釣りに囲碁、畑作りに庭作り、俳句にカメラ、と趣味の多い人でした。
あと1年の命と医者に告げられ、父は今までの趣味を全てやめ、臨済宗の在家のお坊さんになる通信教育を受け始めました。
私に、いつか勉強しようと思っていたが、もっと早くやっておけばよかっと、ひとこと言いました。

もうひとつは自分は大学に行きたかったけれど行けなくて、昔仕事場で、大学出のひとに馬鹿にされたことが、今でも忘れられない、とも。ちょっと、辛かったな。最期にそんなこと、人は忘れられないんだ・・・。しかも、私の尊敬する、何でも知ってて、何でもできると思ってた父が。
私に話してくれたことで、あっちに持ってかなくても良くなったかな?

父はもともと仏教観のある人で、私が小さい時から、森羅万象の中に真理を見いだし、互いに感謝し合って生きていくことの重要性を教えてくれていました。

父はそうやって最後まで、私に教えてくれました。

私は、どう生きようか?

神を知ることも、その延長線上にある気がします。


ヴェーダでは
神の捉え方には、3つの局面があって、それを同時に体現しているものこそが全体をとらえていることになります

1、ブラフマンとしての局面   宇宙自然の中にある普遍性 梵我一如 全ては一つである 永遠性
2、パラマートマーとしての局面 あらゆる生命体、細胞の一つ一つに寄り添ってくれている 全知性
3、バガヴァーンとしての局面  全ての富、力、名声、美しさ、知性、を持ち
                それら全てに全く執着していない 喜びの源
  バガヴァーンとしての局面で              
  一番大事なのは、私たちだって人格があるように、

神にも人格があるということです。


だから、もっと知りたいという私たちの望みに応じて、様々なパーソナルな面を表してくれます。
なぜなら、パラマートーマーとして、各人のハートの中でずっと望みを叶えてくれている訳だからね。
私は、私のことしか知らないけど、神は皆のことを知っている。
だから、私たちは質的には神と同じだけれど、量的には神には及びません。

そして、神は完全なので、その一部である我々も完全である、ということ気付いていくことによって、
今のまま、与えられたままの自分で何一つ、欠けている物は無いとわかると、生きているだけで満たされる。
ありのままの自分を受け入れることができます。
これは本当に、自分が神様と個として関係している、と実感したときに分かります。


 神は、光であり、エネルギーでもあるけど、それだけじゃないんです。
もっと、知りたい、関係を深めたいと、思えばいくらでもその機会を与えてくれます。
我々の望みを叶えようと、いつも微笑んで待っていてくれているんです。
私たちが、その存在を忘れていても呼吸を通して生かしてくれているし、意識しなくても体のなかで
食べ物を消化してくれています。
そのことを、神なんかいないけど、勝手にそうなったんだ、と理解することもあり!これも認めてくれています。
とにかく、とことん各人の自由意志を満たしてくれています。

でも、いや、そうじゃないよ、生かされてる気がする、という人は、その存在に感謝したくなるし、
もっと知りたくなる。
私のハートの横で微笑んで、私が気づくのをずっと待ってくれている、
その顔に向いて、長い間一緒にいてくれたのに無視しててごめんなさい、
とにっこり微笑み返したい!
(キャンデーズの唄の微笑み返しですね)。


センスの問題になるのかな?

まあ、私は、こっち派ですが。





(もっと、専門的に教典を通して勉強したい方は毎週日曜日 午前10:30~11:30
で江戸川区の船堀寺院で行って  いる,バガヴァッドギータークラスを受講なさって下さい。
 ( お問合せはgovindasmuratayoshie@gmail.com ヤムナまで)






      
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by govindasyamuna | 2011-10-25 10:55 | ヤムナのある日のブログ
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