バヌスワミによる、ルーパゴースワミ著のヴェーダ経典、バクティラサムリタ・シンドゥの解説のクラスをまとめてゆきたいと思います。
y-tubeで聴けます。
自分の理解の整理のためにまとめるものなので、よろしかったら興味のある方はぜひ一緒に読んでいってくださいね。通訳は、アムリタ・カターさんによるものです。
1日目
第一編 第二部 東側 甘いラサの海(バクティラサムリタ・シンドゥ)
今日の講義は、サンスクリット語のバクティラサムリタ・シンドゥという経典の解説です。日本語では、甘いラサの海という意味です。この書物の主題はラサです。この中にはサダナ、バーヴァ、プレマという、いろいろな段階のバクティが述べられている。プレマでラサが現れる。なので、この本は、崇高なバクティに関する詳細が述べられている。
わたしたちが、現段階で修練しているものはサダナバクティという第一段階です。プレマなどは、高度すぎて私には関連がないと考えるかもしれない。もちろんサダナを正しく行わなければ、プレマを達成できないのは事実です。しかし、純粋なバクティとは何か、を知っておくことは非常に重要です。
同時に、何を達成しようとしているのか目的を把握することも大切です。例えば、医者になりたかったら、何らかの学科を取らなくてはならない。物理学とか、化学とか、生物学、が含まれた一般教的な学科をとるかもしれない。徐々に医学的なものを勉強し始める。その後、もっと専門的な学科に入る。
ただその学科をとって勉強しても、何を達成したら良いかわからないまま勉強していると、結果は完全に満足するものではなくなる。
医者になりたい人の中で、具体的なインスピレーションを持って目指している人こそが良い医者になる。両親に強いられたという理由だけで医者になろうとする人は、強い動機がないのでスキルの良い医者になれない。
同じようにバクティを行なっている人も、目標を把握することが大切です。バクティにおける、初心者のコースでは、バクティのゴールは、クリシュナバクティだとわかっている。では、プレマとは何か?一番純粋なバクティである。しかし、実際には、プレマというのは一種の経験である。ですから、言葉で定義付けられるものではない。プレマの段階を達成するには一種の修練を受けなくてはならない。
プレマはたくさんのタイプがある。その種類に応じて、いろんなプレマに到達できる。なかには、もっと一般的で達成しやすいものがあったり、もっと濃密で高度なものもある。もちろん、知性のある人はプレマにおいても、より優れているプレマを目指します。その結果を得るために、特定の方法(サダナ)を取ります。
正しい結果を得るには、ラサとは何なのか、プレマとは何なのかを知っておくことが大切です。もちろんこの段階では、知的な理解はできるが完全ではない。けれど、完全ではなくとも必要で重要な知識です。
例えば薬学を学ぶ時、最初に学ぶべきことがある。最初に原理(理論)を学ばなくてはならない。その後に応用を学ぶ。原理と応用は異なるが、その基礎的な理論があれば、正しい方向に行くことができる。
また、基礎的な知識があればシュリーマド・バーガヴァタム(SB)の中に登場するような、より発達している人たちのことを、より評価することができる。
今はちょうどダモダラの月で、この遊戯ではクリシュナと母ヤショダがいる。SBでは母ヤショダがどのように行動しているのか、どのような気持ちを持っているのかが述べられている。またクリシュナがどういうふうに見えるのか、クリシュナが何をしているのか、クリシュナが何を感じているのかが描かれている。でもこういう行動や装いもすべてラサが関係している。だから、SBに述べられているクリシュナと献身者の遊戯は厳密に言えば全部ラサの遊戯になる。
ですから、ラサとは何なのかが理解できれば、クリシュナとその他の献身者のことを、より評価することができる。
精神世界には、いろんな感情を持ついろんな人物がいる。その関係性がラサを生みます。
そのラサは常に増して、変化していきます。
そして、そのラサの反射が物質世界に現れます。
人間同士においても関係を築いていきますが、そういう関係は感情を生みます。また行動も生みます。その感情と行動の組み合わせが、物質的なラサの原因になります。
精神世界における、クリシュナと献身者の間のラサと、物質世界の人間同士のラサには、何らかの共通点があります。ですから、同じような方法で分析することができます。
物質世界では、物質的な知性をもとに物質的に分析してきたものがある。
バラタ・ムニが、演劇に関する「ナティヤ・シャーストラ」を著している。演劇とは、人間を演じる物語です。その物語とは、人間がどういうふうに交流していくかというお話です。人はなぜ特定の行動を取るのかというと、お互いに関するいろいろな感情があるからです。バラタ・ムニは、劇は世界の中での人間を表すことなので、人間関係を研究して分析しました。より現実的でリアルな人間関係を表すことができれば、より質の高い劇になります。人間がどのようにして関係を持つのか、ある論理を提唱しました。そして、その論理を応用して劇を作りました。言い換えると、劇には何らかの原則が必要である、ということです。そういういろいろな部分を組み合わせることで、観客に、ある体験を味わせることができるのです。結果として、観客はヒーローやヒロインの感情を同じように体験できるのです。
そして、物語を通じて感情が変化する。時には愛があり、時には憎み、また時には妬みがあり恐れもある。また、冗談を言い合ったりするなか、最終的に何らかの結論に達する。
そこで、彼は、ラサの材料を分析して応用することで、いろんな感情を用いることで最終的に劇の中でその感情を体験させようとした。だから、たった一つの感情ではなく、劇を見た時、そうごうてきにもっと高尚な美的体験として味わうことになる。
その感情というのは、いつもの日常の中で体験している感情なので俗的なものですが、劇において体験した感情は芸術性を帯びるので普段の感情とはレベルが違うものとなる。それは、劇に限ったことではなく、絵画を見たときとか、音楽を聴いたときのように、日常の感情とは異なった、少し高位な体験です。
最初にラサの原材料を見ていきましょう。
これはバラタ・ムニが分析し最終的に辿り着いた俗的な世界のラサの材料です。精神世界でも同じです。ただ、対象が俗的な存在ではなく、クリシュナです。
ですから、レベルは違いますが、材料としては似ています。
ラサには五つの要素があります。
ルーパ・ゴースワミーは、ネクター・オブ・ディヴォーション(NOD)の中で、五つの主要な関係を分析しています。
その五つとは、シャンタ(中立関係)、ダシャ(主従関係)、サッキャ(友人関係)、ヴァッツァーリャ(親子関係)、マドゥリャ(恋人関係)。
この五つの主要なラサを分析するにあたって、次に挙げる五つの原材料のレンズを通して分析している。ウジワラニラマニでもこの同じ五つの要素を通して分析している。
五つの原材料
Ingredients of Rasa. ラサの材料
・Vibhava ヴィバーヴァ 具体的に関わっている人 基本的には二人
・Sthayi bhava-rati スタイバーヴァ ラティ 二人の間に生まれる関係のこと
・Anubhava アヌバーヴァ 関係に基づいた意識的な行動
・Sattvika Bhava サットヴィカバーヴァ 関係に基づいた無意識的な行動
・Vyabhicari ヴァビチャリバーヴァ 小さな障害物 サットヴィカバーヴァを生むマイナーな感情
最初の要因が、Vibhava:ヴィバーヴァと呼ばれるものです。ヴィバーヴァとはラサにおいて必要不可欠なもので、それに関わっている具体的な人物を指します。人物がいなければラサは存在しません。ほとんどの劇は一人だけでなく、二人とか五人とかたくさんの登場人物がいる。でも、ラサは二人の主要な人物の間に生まれる。例えば、ロミオとジュリエットでは、主要な登場人物はロミオとジュリエットの二人で、マドゥリャラサのような関係があります。この劇は、マドゥリャラサの発展についての物語なのです。マドゥリャラサは、もちろんその二人がいなければ生まれることはない。精神世界でも同様に、クリシュナと献身者がいなければラサは存在することができません。
二人の人物がいると、ラサが生まれます、そのことを次の要因、Sthayi bhava:スタイバーヴァといいます。二人の間に生まれる関係を、スタイバーヴァとというのですが、これは主に、シャンタラサとかダシャラサと言われる主要なラサを指しています。スタイバーヴァというのは二人の間における関係という意味です。しかし、精神世界のスタイバーヴァはクリシュナが対象なので五つの主要なラサを指しますが、物質世界ではクリシュナが対象ではないので、二人の関係はもしかしたら憎しみに基づいているかも知れない。物質世界、つまり俗的な世界でのドラマや映画では、精神世界での二次的なラサがメインのラサになってしまう。例えば有名な映画でスーパーヒーローがたくさん出てきて、そこでもメインの英雄みたいなのがメインのラサになるし、今一つは恐怖がメインでホラー映画のようなものが生まれる。物質世界でのホラー映画やコメディ映画では、二次的なラサがメインのラサになってしまう。しかし精神世界では、必ず二次的なラサは二次的なラサのままでいて、メインはその五つの主要なラサなのです。
一度関係が築かれると、人々はその関係に基づいて関係をとります。その行動をAnubhavaアヌバーヴァという。アヌバーヴァの中では特定のラサでは、特定の行動がある。もちろん、なかにはほとんどのラサにおける一般的な行動というものがあります。例えば精神世界では、キルタンをしたり踊ったりは全部のラサに共通する行動です。でも、ラーサリーラでのダンスはマドゥリャラサだけの行動です。レスリングの試合は牛飼いの少年たちだけの行動なので、サッキャラサだけのアヌバーヴァです。クリシュナのためにご飯を作ったり食べさせたりするのは、ヴァッツァーリャラサの特定の行動です。ダモダラのパスタイムでは、母ヤショダはクリシュナにミルクを飲ませるのですが、それは彼女のアヌバーヴァです。また、火にかけていたポットのミルクが溢れそうだったので、止めに行ったのも、彼女のアヌバーヴァです。でもこういうアヌバーヴァは、牛飼いの少年たちにはできません。ですから、アヌバーヴァというのは意識をもってとる行動を指します。
その次にSattvika Bhava:サットヴィカバーヴァというのがあります。これも、身体的な体の行動を意味します。しかし、計画的に意識的にやっている行動ではない。無意識から湧き起こる行動のことです。こういう行動は深い感情から生まれるものです。例えば、泣くことは誰も計画して泣くのではなく、深い感情があって涙が出る。これはサットヴィカバーヴァの一つです。もう一つは、恐れからくる体の震えがあるかも知れない。または、肌の色が変わるということが起こる。例えば、怒ったときに顔の色が赤くなったり、黒くなったりする。または失神して倒れてしまう。こういう行動の一連をサットヴィカバーヴァという。ヤショダが愛情からご飯を作るのはアヌバーヴァで、自然と湧き上がる無意識な行動をとることはサットヴィカバーヴァという。サットヴィカバーヴァというのは、特定の感情から生まれる身体の反応と言える。そういうサットヴィバーヴァを見ることで、この人はこういう深い、または強い感情を持っているのだなあ、と見ることができる。例えば、劇で俳優は自分の感情を表さなくてはならない。言葉で私は怒っていると言えるかも知れないが、それはあまりいい役者とは言えない。いい役者は、言葉を使わずに行動を通して怒りを表すことができる。一つは顔の表情から。本当にうまい役者は、顔色を変えることができ、色から怒っていることがわかる。また震え始めるかも知れない。汗をかいたり、もしかしたら、失神できるかも知れない。だからいろんなサットヴィカバーヴァから感情の深さとつよさわかる。
そこで、精神世界のサットヴィカバーヴァのことをあげると、いろんな場面でラーダラーニが気を失う。特に、クリシュナとの離別の感情から、サットヴィカバーヴァはラーダラーニの愛情の深さを表している。
最後の五つ目の要因をVyabhicari :ヴァビチャリバーヴァという。これは小さな障害物という意味です。海にあるさざなみのようなものです。海には、大きな波と小さな波があります。これはサットヴィカバーヴァを生むマイナーな感情で、スタイバーヴァを邪魔するようにも見える。五つの主要なスタイバーヴァがありますが、このマイナーな感情は33個あります。良いものもあれば、ネガティヴなものもあります。喜びとか嘆きとか。そして、このネガティヴなものは主要なラサにもなり得ます。このヴァビチャリバーヴァを通して、人の奥深さというものが出てきます。私たちは自然と複雑な感情を抱いています。だからこそ役者はただ喜びと悲しみだけでなく、人間が持つ複雑な感情を演じなくてはならない。ものすごくうまい役者というのは、疑い深さとか、心配とか妬みとか決意、落ち着きのなさ、もっと強い狂気、怠惰とか罪悪感などの、より微妙な感情を表すことができる。劇作家は、このようないろいろな要素をうまく組み合わせて感情を発展させて、芸術的な体験を観客に体験させるような劇を作らなければならない。
精神世界においては、それを誰かが作り出すのではなく、それぞれが自発的に行う。
精神世界では、クリシュナのエネルギーがあって、いろんな関係やいろんな感情が混ざり合ってラサというものを作り出します。ラサという言葉は、関係から得られる味わいという意味です。
それは舌の味覚ではなく、心で体験する味わいです。もちろん、一つの感覚に限定して舌で味わうこともできます。例えば、良い味を作ることに長けている人はシェフです。いろんな材料を混ぜて、美味しい味を作ることができます。誰もが、同じ材料で、シェフのように美味しい味を作り出せない。砂糖をいれただけでは甘いだけ、チリを入れただけではただ辛いだけで、それでは腕の良いシェフとは言えないのです。腕のあるシェフは、複雑な奥深い味を作り出すことができる。そして、その複雑な味は材料によります。誰にでもピザを作ることはできる。誰にでもブロッコリーやトマトの材料は同じようにある。でも、腕の良いシェフは、ただのトマトではなく特定のトマトを選ぶし、生地にする小麦粉も選別する。分量も大切である。トマトを入れすぎるのも入れなさすぎるのも良くない。正しい分量で他の材料と混ぜ合わせなけれならない。そこに、少しスパイスを加え、うまく組み合わせれば美味しいピザができる。皆同じ材料で同じピザを作るけれど、美味しいものもあれば不味いものもある。同じ材料を使っても、分量とかスパイスとかの混ぜ合わせ方によって、美味しいピザを作れる人とそうでない人がいる。
この例によって、最終的なピザの味というのは、材料の味とは異なる。トマトを食べているというような感じではない。同じように、ただチーズを食べているという感じでもない。いろんな材料の組み合わせが、最終的な味の体験を作り上げる。精神世界でも五つの材料がいろんな風に組み合わされて、特定のラサを作る。それが悪い組み合わせだと、時々悪いラサを作ってしまう。例えば、塩と砂糖を間違えるかも知れない。時々詩人は、クリシュナとのラサを描写したいと思うが、間違ったところに間違ったものを入れてしまうことで、不味い詩を作るかも知れない。これをラサバースという。主チャイタンニャは、弟子にのなかにいろんな詩人がいて、その弟子たちは詩を読み上げたいと思っていたが、主はラサバースは聞きたくなかったので、弟子たちにすべてをチェックさせ、少しでもラサバースが入っていたら却下するように厳しく言った。
真ん中に、スタイバーヴァがあって、それはマドゥリャラサなどの、クリシュナとの主要な五つの関係です。その周りに、ヴィバーヴァがあり、それは関係を持っている二人の人物。アヌバーヴァが意図を持って行う行動。サットヴィカバーヴァが、意図的でない身体の反応で、涙を流すとかの行動のことです。そして、ヴァビチャリバーヴァが、マイナーな感情。
これらが合わさった最終的な結果がラサです。
そして、スタイバーヴァというのはバーヴァの段階で表れます。
最初はサダナバクティから始まります。
聞くこと、唱えること、神像崇拝をしたり、9つの献身奉仕というような、サダナバクティを行ううちに、徐々にバーヴァに達する。スタイバーヴァというのが、実際に私たちが持つクリシュナの体験です。これがクリシュナの内的エネルギー、すなわちフラディーニ、及びサンビットによって構成されています。これが、ジーヴァの中に入ってきます、と、そこでジーヴァはバーヴァを体験する。そうしてジーヴァはクリシュナを目の当たりにして、クリシュナに仕えるようになるのです。
そして、それがより成熟してプレマというより深いラサになります。
それでは、Vibhava ヴィバーヴァについて、より深く見ていきましょう。
Vibhava Causes of Relishing Rati 二人のキャラクター、ラティを楽しむ原因、
人がいなければ関係が生まれることはない
Vibhavaを構成するものが、Alambana(アランバナ)支えとUddipana(ウディパナ)動機付け。
Alambanaは、さらに二つに分けられる。
❶Visaya:ヴィシャヤ:愛の対象であるクリシュナ。
❷Asraya:アシュラヤ:愛を体験しているもの、献身者。
この二つ❶と❷が組み合わさってAsrayaである献身者がスタイバーヴァを体験する。でも、クリシュナがいなければ、献身者はスタイバーヴァを体験することができない。シュリーマド・バーガヴァタムの第10巻に書かれているような、いろいろな遊戯で、クリシュナと献身者がいるダモダラの遊戯では、母ヤショダがアシュラヤで、クリシュナがヴィシャヤです。
つまり、先ほど申し上げたAlambanaというのが、VisayaとAsrayaです。
Uddipanaとは、それらを動機付けるものを指します。クリシュナにおいては、感情を呼び起こすものがいくつかあります。例えば、クリシュナの質が、私たちの愛を刺激するかも知れない。または、孔雀の羽だったり、主のフルートの音など。このウディパナが(ウディパナはヴィシャヤに関連付いているのですが)いろんな質のアシュラヤの愛を呼びさまします。。(55:10)
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by govindasyamuna
| 2022-02-15 22:42
| バガヴァッド・ギーター他・法話