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バヌスワミのバクティ・ラサ・ムリタ・シンドゥ①


今日から、2021年より始まりました、
バヌスワミによる、ルーパゴースワミ著のヴェーダ経典、バクティラサムリタ・シンドゥの解説のクラスをまとめてゆきたいと思います。

y-tubeで聴けます。



自分の理解の整理のためにまとめるものなので、よろしかったら興味のある方はぜひ一緒に読んでいってくださいね。通訳は、アムリタ・カターさんによるものです。


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1日目

第一編 第二部 東側 甘いラサの海(バクティラサムリタ・シンドゥ)

今日の講義は、サンスクリット語のバクティラサムリタ・シンドゥという経典の解説です。日本語では、甘いラサの海という意味です。この書物の主題はラサです。この中にはサダナ、バーヴァ、プレマという、いろいろな段階のバクティが述べられている。プレマでラサが現れる。なので、この本は、崇高なバクティに関する詳細が述べられている。
わたしたちが、現段階で修練しているものはサダナバクティという第一段階です。プレマなどは、高度すぎて私には関連がないと考えるかもしれない。もちろんサダナを正しく行わなければ、プレマを達成できないのは事実です。しかし、純粋なバクティとは何か、を知っておくことは非常に重要です。
同時に、何を達成しようとしているのか目的を把握することも大切です。例えば、医者になりたかったら、何らかの学科を取らなくてはならない。物理学とか、化学とか、生物学、が含まれた一般教的な学科をとるかもしれない。徐々に医学的なものを勉強し始める。その後、もっと専門的な学科に入る。

ただその学科をとって勉強しても、何を達成したら良いかわからないまま勉強していると、結果は完全に満足するものではなくなる。

医者になりたい人の中で、具体的なインスピレーションを持って目指している人こそが良い医者になる。両親に強いられたという理由だけで医者になろうとする人は、強い動機がないのでスキルの良い医者になれない。
同じようにバクティを行なっている人も、目標を把握することが大切です。バクティにおける、初心者のコースでは、バクティのゴールは、クリシュナバクティだとわかっている。では、プレマとは何か?一番純粋なバクティである。しかし、実際には、プレマというのは一種の経験である。ですから、言葉で定義付けられるものではない。プレマの段階を達成するには一種の修練を受けなくてはならない。
プレマはたくさんのタイプがある。その種類に応じて、いろんなプレマに到達できる。なかには、もっと一般的で達成しやすいものがあったり、もっと濃密で高度なものもある。もちろん、知性のある人はプレマにおいても、より優れているプレマを目指します。その結果を得るために、特定の方法(サダナ)を取ります。
正しい結果を得るには、ラサとは何なのか、プレマとは何なのかを知っておくことが大切です。もちろんこの段階では、知的な理解はできるが完全ではない。けれど、完全ではなくとも必要で重要な知識です。
例えば薬学を学ぶ時、最初に学ぶべきことがある。最初に原理(理論)を学ばなくてはならない。その後に応用を学ぶ。原理と応用は異なるが、その基礎的な理論があれば、正しい方向に行くことができる。

また、基礎的な知識があればシュリーマド・バーガヴァタム(SB)の中に登場するような、より発達している人たちのことを、より評価することができる。

今はちょうどダモダラの月で、この遊戯ではクリシュナと母ヤショダがいる。SBでは母ヤショダがどのように行動しているのか、どのような気持ちを持っているのかが述べられている。またクリシュナがどういうふうに見えるのか、クリシュナが何をしているのか、クリシュナが何を感じているのかが描かれている。でもこういう行動や装いもすべてラサが関係している。だから、SBに述べられているクリシュナと献身者の遊戯は厳密に言えば全部ラサの遊戯になる。

ですから、ラサとは何なのかが理解できれば、クリシュナとその他の献身者のことを、より評価することができる。

精神世界には、いろんな感情を持ついろんな人物がいる。その関係性がラサを生みます。

そのラサは常に増して、変化していきます。

そして、そのラサの反射が物質世界に現れます。

人間同士においても関係を築いていきますが、そういう関係は感情を生みます。また行動も生みます。その感情と行動の組み合わせが、物質的なラサの原因になります。

精神世界における、クリシュナと献身者の間のラサと、物質世界の人間同士のラサには、何らかの共通点があります。ですから、同じような方法で分析することができます。

物質世界では、物質的な知性をもとに物質的に分析してきたものがある。
バラタ・ムニが、演劇に関する「ナティヤ・シャーストラ」を著している。演劇とは、人間を演じる物語です。その物語とは、人間がどういうふうに交流していくかというお話です。人はなぜ特定の行動を取るのかというと、お互いに関するいろいろな感情があるからです。バラタ・ムニは、劇は世界の中での人間を表すことなので、人間関係を研究して分析しました。より現実的でリアルな人間関係を表すことができれば、より質の高い劇になります。人間がどのようにして関係を持つのか、ある論理を提唱しました。そして、その論理を応用して劇を作りました。言い換えると、劇には何らかの原則が必要である、ということです。そういういろいろな部分を組み合わせることで、観客に、ある体験を味わせることができるのです。結果として、観客はヒーローやヒロインの感情を同じように体験できるのです。

そして、物語を通じて感情が変化する。時には愛があり、時には憎み、また時には妬みがあり恐れもある。また、冗談を言い合ったりするなか、最終的に何らかの結論に達する。
そこで、彼は、ラサの材料を分析して応用することで、いろんな感情を用いることで最終的に劇の中でその感情を体験させようとした。だから、たった一つの感情ではなく、劇を見た時、そうごうてきにもっと高尚な美的体験として味わうことになる。

その感情というのは、いつもの日常の中で体験している感情なので俗的なものですが、劇において体験した感情は芸術性を帯びるので普段の感情とはレベルが違うものとなる。それは、劇に限ったことではなく、絵画を見たときとか、音楽を聴いたときのように、日常の感情とは異なった、少し高位な体験です。


最初にラサの原材料を見ていきましょう。

これはバラタ・ムニが分析し最終的に辿り着いた俗的な世界のラサの材料です。精神世界でも同じです。ただ、対象が俗的な存在ではなく、クリシュナです。
ですから、レベルは違いますが、材料としては似ています。

ラサには五つの要素があります。

ルーパ・ゴースワミーは、ネクター・オブ・ディヴォーション(NOD)の中で、五つの主要な関係を分析しています。
その五つとは、シャンタ(中立関係)、ダシャ(主従関係)、サッキャ(友人関係)、ヴァッツァーリャ(親子関係)、マドゥリャ(恋人関係)
この五つの主要なラサを分析するにあたって、次に挙げる五つの原材料のレンズを通して分析している。ウジワラニラマニでもこの同じ五つの要素を通して分析している。

五つの原材料
Ingredients of Rasa. ラサの材料
Vibhava ヴィバーヴァ 具体的に関わっている人 基本的には二人
Sthayi bhava-rati スタイバーヴァ ラティ 二人の間に生まれる関係のこと
Anubhava アヌバーヴァ 関係に基づいた意識的な行動
Sattvika Bhava サットヴィカバーヴァ 関係に基づいた無意識的な行動
Vyabhicari ヴァビチャリバーヴァ 小さな障害物 サットヴィカバーヴァを生むマイナーな感情


最初の要因が、Vibhava:ヴィバーヴァと呼ばれるものです。ヴィバーヴァとはラサにおいて必要不可欠なもので、それに関わっている具体的な人物を指します。人物がいなければラサは存在しません。ほとんどの劇は一人だけでなく、二人とか五人とかたくさんの登場人物がいる。でも、ラサは二人の主要な人物の間に生まれる。例えば、ロミオとジュリエットでは、主要な登場人物はロミオとジュリエットの二人で、マドゥリャラサのような関係があります。この劇は、マドゥリャラサの発展についての物語なのです。マドゥリャラサは、もちろんその二人がいなければ生まれることはない。精神世界でも同様に、クリシュナと献身者がいなければラサは存在することができません。

二人の人物がいると、ラサが生まれます、そのことを次の要因、Sthayi bhava:スタイバーヴァといいます。二人の間に生まれる関係を、スタイバーヴァとというのですが、これは主に、シャンタラサとかダシャラサと言われる主要なラサを指しています。スタイバーヴァというのは二人の間における関係という意味です。しかし、精神世界のスタイバーヴァはクリシュナが対象なので五つの主要なラサを指しますが、物質世界ではクリシュナが対象ではないので、二人の関係はもしかしたら憎しみに基づいているかも知れない。物質世界、つまり俗的な世界でのドラマや映画では、精神世界での二次的なラサがメインのラサになってしまう。例えば有名な映画でスーパーヒーローがたくさん出てきて、そこでもメインの英雄みたいなのがメインのラサになるし、今一つは恐怖がメインでホラー映画のようなものが生まれる。物質世界でのホラー映画やコメディ映画では、二次的なラサがメインのラサになってしまう。しかし精神世界では、必ず二次的なラサは二次的なラサのままでいて、メインはその五つの主要なラサなのです。

一度関係が築かれると、人々はその関係に基づいて関係をとります。その行動をAnubhavaアヌバーヴァという。アヌバーヴァの中では特定のラサでは、特定の行動がある。もちろん、なかにはほとんどのラサにおける一般的な行動というものがあります。例えば精神世界では、キルタンをしたり踊ったりは全部のラサに共通する行動です。でも、ラーサリーラでのダンスはマドゥリャラサだけの行動です。レスリングの試合は牛飼いの少年たちだけの行動なので、サッキャラサだけのアヌバーヴァです。クリシュナのためにご飯を作ったり食べさせたりするのは、ヴァッツァーリャラサの特定の行動です。ダモダラのパスタイムでは、母ヤショダはクリシュナにミルクを飲ませるのですが、それは彼女のアヌバーヴァです。また、火にかけていたポットのミルクが溢れそうだったので、止めに行ったのも、彼女のアヌバーヴァです。でもこういうアヌバーヴァは、牛飼いの少年たちにはできません。ですから、アヌバーヴァというのは意識をもってとる行動を指します。

その次にSattvika Bhava:サットヴィカバーヴァというのがあります。これも、身体的な体の行動を意味します。しかし、計画的に意識的にやっている行動ではない。無意識から湧き起こる行動のことです。こういう行動は深い感情から生まれるものです。例えば、泣くことは誰も計画して泣くのではなく、深い感情があって涙が出る。これはサットヴィカバーヴァの一つです。もう一つは、恐れからくる体の震えがあるかも知れない。または、肌の色が変わるということが起こる。例えば、怒ったときに顔の色が赤くなったり、黒くなったりする。または失神して倒れてしまう。こういう行動の一連をサットヴィカバーヴァという。ヤショダが愛情からご飯を作るのはアヌバーヴァで、自然と湧き上がる無意識な行動をとることはサットヴィカバーヴァという。サットヴィカバーヴァというのは、特定の感情から生まれる身体の反応と言える。そういうサットヴィバーヴァを見ることで、この人はこういう深い、または強い感情を持っているのだなあ、と見ることができる。例えば、劇で俳優は自分の感情を表さなくてはならない。言葉で私は怒っていると言えるかも知れないが、それはあまりいい役者とは言えない。いい役者は、言葉を使わずに行動を通して怒りを表すことができる。一つは顔の表情から。本当にうまい役者は、顔色を変えることができ、色から怒っていることがわかる。また震え始めるかも知れない。汗をかいたり、もしかしたら、失神できるかも知れない。だからいろんなサットヴィカバーヴァから感情の深さとつよさわかる。
そこで、精神世界のサットヴィカバーヴァのことをあげると、いろんな場面でラーダラーニが気を失う。特に、クリシュナとの離別の感情から、サットヴィカバーヴァはラーダラーニの愛情の深さを表している。

最後の五つ目の要因をVyabhicari :ヴァビチャリバーヴァという。これは小さな障害物という意味です。海にあるさざなみのようなものです。海には、大きな波と小さな波があります。これはサットヴィカバーヴァを生むマイナーな感情で、スタイバーヴァを邪魔するようにも見える。五つの主要なスタイバーヴァがありますが、このマイナーな感情は33個あります。良いものもあれば、ネガティヴなものもあります。喜びとか嘆きとか。そして、このネガティヴなものは主要なラサにもなり得ます。このヴァビチャリバーヴァを通して、人の奥深さというものが出てきます。私たちは自然と複雑な感情を抱いています。だからこそ役者はただ喜びと悲しみだけでなく、人間が持つ複雑な感情を演じなくてはならない。ものすごくうまい役者というのは、疑い深さとか、心配とか妬みとか決意、落ち着きのなさ、もっと強い狂気、怠惰とか罪悪感などの、より微妙な感情を表すことができる。劇作家は、このようないろいろな要素をうまく組み合わせて感情を発展させて、芸術的な体験を観客に体験させるような劇を作らなければならない。

精神世界においては、それを誰かが作り出すのではなく、それぞれが自発的に行う。

精神世界では、クリシュナのエネルギーがあって、いろんな関係やいろんな感情が混ざり合ってラサというものを作り出します。ラサという言葉は、関係から得られる味わいという意味です。

それは舌の味覚ではなく、心で体験する味わいです。もちろん、一つの感覚に限定して舌で味わうこともできます。例えば、良い味を作ることに長けている人はシェフです。いろんな材料を混ぜて、美味しい味を作ることができます。誰もが、同じ材料で、シェフのように美味しい味を作り出せない。砂糖をいれただけでは甘いだけ、チリを入れただけではただ辛いだけで、それでは腕の良いシェフとは言えないのです。腕のあるシェフは、複雑な奥深い味を作り出すことができる。そして、その複雑な味は材料によります。誰にでもピザを作ることはできる。誰にでもブロッコリーやトマトの材料は同じようにある。でも、腕の良いシェフは、ただのトマトではなく特定のトマトを選ぶし、生地にする小麦粉も選別する。分量も大切である。トマトを入れすぎるのも入れなさすぎるのも良くない。正しい分量で他の材料と混ぜ合わせなけれならない。そこに、少しスパイスを加え、うまく組み合わせれば美味しいピザができる。皆同じ材料で同じピザを作るけれど、美味しいものもあれば不味いものもある。同じ材料を使っても、分量とかスパイスとかの混ぜ合わせ方によって、美味しいピザを作れる人とそうでない人がいる。
この例によって、最終的なピザの味というのは、材料の味とは異なる。トマトを食べているというような感じではない。同じように、ただチーズを食べているという感じでもない。いろんな材料の組み合わせが、最終的な味の体験を作り上げる。精神世界でも五つの材料がいろんな風に組み合わされて、特定のラサを作る。それが悪い組み合わせだと、時々悪いラサを作ってしまう。例えば、塩と砂糖を間違えるかも知れない。時々詩人は、クリシュナとのラサを描写したいと思うが、間違ったところに間違ったものを入れてしまうことで、不味い詩を作るかも知れない。これをラサバースという。主チャイタンニャは、弟子にのなかにいろんな詩人がいて、その弟子たちは詩を読み上げたいと思っていたが、主はラサバースは聞きたくなかったので、弟子たちにすべてをチェックさせ、少しでもラサバースが入っていたら却下するように厳しく言った。


真ん中に、スタイバーヴァがあって、それはマドゥリャラサなどの、クリシュナとの主要な五つの関係です。その周りに、ヴィバーヴァがあり、それは関係を持っている二人の人物。アヌバーヴァが意図を持って行う行動。サットヴィカバーヴァが、意図的でない身体の反応で、涙を流すとかの行動のことです。そして、ヴァビチャリバーヴァが、マイナーな感情。
これらが合わさった最終的な結果がラサです。

そして、スタイバーヴァというのはバーヴァの段階で表れます。
最初はサダナバクティから始まります。
聞くこと、唱えること、神像崇拝をしたり、9つの献身奉仕というような、サダナバクティを行ううちに、徐々にバーヴァに達する。スタイバーヴァというのが、実際に私たちが持つクリシュナの体験です。これがクリシュナの内的エネルギー、すなわちフラディーニ、及びサンビットによって構成されています。これが、ジーヴァの中に入ってきます、と、そこでジーヴァはバーヴァを体験する。そうしてジーヴァはクリシュナを目の当たりにして、クリシュナに仕えるようになるのです。
そして、それがより成熟してプレマというより深いラサになります。

それでは、Vibhava ヴィバーヴァについて、より深く見ていきましょう。

Vibhava Causes of Relishing Rati  二人のキャラクター、ラティを楽しむ原因、
                   人がいなければ関係が生まれることはない
Vibhavaを構成するものが、Alambana(アランバナ)支えUddipana(ウディパナ)動機付け

Alambanaは、さらに二つに分けられる。
Visaya:ヴィシャヤ:愛の対象であるクリシュナ。 
Asraya:アシュラヤ:愛を体験しているもの、献身者。
この二つ❶と❷が組み合わさってAsrayaである献身者がスタイバーヴァを体験する。でも、クリシュナがいなければ、献身者はスタイバーヴァを体験することができない。シュリーマド・バーガヴァタムの第10巻に書かれているような、いろいろな遊戯で、クリシュナと献身者がいるダモダラの遊戯では、母ヤショダがアシュラヤで、クリシュナがヴィシャヤです。
つまり、先ほど申し上げたAlambanaというのが、VisayaとAsrayaです。

Uddipanaとは、それらを動機付けるものを指します。クリシュナにおいては、感情を呼び起こすものがいくつかあります。例えば、クリシュナの質が、私たちの愛を刺激するかも知れない。または、孔雀の羽だったり、主のフルートの音など。このウディパナが(ウディパナはヴィシャヤに関連付いているのですが)いろんな質のアシュラヤの愛を呼びさまします。。(55:10)









# by govindasyamuna | 2022-02-15 22:42 | バガヴァッド・ギーター他・法話

生きるヨガ ”いのちをいただく”を共感的コミュニケーション(NVC)で伝えてみたら・・

生きるヨガ ”いのちをいただく”を共感的コミュニケーション(NVC)で伝えてみたら・・_a0170643_1643569.jpg


生きるヨガをNVCで考えてみました。



NVC的コミュニケーションのしかたというのがあります。

NVCとはノンバイオレンスコミュニケ—ションです。

つまり共感的コミュニケーションです。

これは、

以前サッチャ先生の講義でも習ったかと思います。

でもね、
NVCで一番重要なのは,自分が自分の本当のニーズに気づくということ。

この場合、動物は友人だから愛したい、という事だと思います。
(これはこのブログのなかの  食べるヨガ”いのちをいただく”ことに関して
  の続きで書いているので、興味のある方はその記事も読んでみて下さい)





自分の感じている事をちゃんと言葉にして伝えていいし
いや、むしろ自分が自分の本当のニーズに気付いてそれを
ストレートに言葉と行動で伝えなくては始ま らないと思います。

そして,その時大事なのは,決して他の人を,非難したりジャッジしたりしないという事です。
決して罪悪感に訴えるような非難をしてはいけないし、心の中で思うだけでも伝わります。

これは、相手に気を使うという事に集中する事より、むしろ
自分の中心から常にぶれずに誠実に言葉を発するということです。



私はどうしたいか,どうありたいかだけを述べ伝えれば良いと思います。

その熱意と率直さに影響されない人がいるでしょうか?

人は,自分が非難されていない時,人の話がそのままストンと入って来るようです。


その人の人生は、他の人が変えられるもので はな く
人はそれぞれ自由意志をいつでも自由に使えるという尊厳がある事に敬意をもつ事だけで充分です。

しっかりと,境界線を引きましょう。

相手の感情の責任を取る事は出来ないし、とってはいけないのです。

相手の感情の責任を取ってしまう事を、共依存といいます。



すべてを与えて下さった神でさえ、その自由意志に立ち入る事はなさいません。
なぜなら愛は強制ではないからです。

愛は、常に自発的であり、愛する事も愛さない事も選べるという状況の中で
本当の魂の二ーズである、自由に愛する事が出来るのです。

ただ、未来を信頼して待っていれば良いのです。
自分の選択で自分の自由を使える事が、どれだけ素晴らしい事かを体 験した人ならば、
誰にでもその可能性のある事は明らかで未来を信じてまつ事が出来ます。

信頼して待つのです。


他人を操作する必要はありません。

自分の事は自分で決めてその行動に責任を持つ事が出来たら、
自由に愛せるはずです。
今、ここで、自分でそれを決める事が出来ます。



人を非難したり、ジャッジしたりしないということが可能なのは、
その人が自分自身を非難したりジャッジしていない時です。

つまり自分は足りないという恐れがないことです。

そして、自分の感情に責任をもち、自分の事は自分で決められるときです。


自分が神の一部だと 本当に理解できたら、他の生命体も神の一部だと理解できます。
そして繫がりを感じます。そうしたらもう食べたくも、痛めつけたくもなくなるのは当然です。

では、何がそのことを邪魔して感じれなくして”食べてもいい”と思ってしまうのか!?



痛みからこそ,愛を与えられると言う逆説的なお話をします。
その時長い長い間自分が過去のカルマで無意識に行ってきた他の生命体を傷つけた時に(具体的には肉食を無意識に続けてきたこと)、生まれた”痛み”というネガティヴな反応が、その自分の痛みを呼び起こして考え たくない、と抵抗しているだけなのだと、気付いた時には目からウロコでした。
キリスト教の言葉にもあります、

自分の痛みに直面して差し出せば差し出すほど私たちはもっと愛に満ちた人になる。
神と人から恵みを受けているために自分の罪を自由に告白できる人は
より愛に満ちた人になります。



そのためにカルマと言う形で、個々に取り組むべき問題、痛みが与えられているのです。
この痛みは言葉を変えれば、ギフトとも言えます。
私たちがこの固有の痛みというものに対して、抵抗ではなく、与えられたものとして、
進んで自覚していってその無意識の正体に向き合えるようになれば、痛みは自分が作り出した反応にすぎない、自分はその痛みではない、自分は永遠の喜びに溢れた意識であり、今後この痛みの罠から(カルマ)から、出て行く自由がある!と、自分で気付くはずです。



NVCの提唱者であられる,マーシャルローゼンバーグ氏は、
ジヴァムクティヨーガの創始者シャロン・ギャノン女史とのインタヴューでこう語られた
という文章を読んで、私にも当てはまると思いました。

子供への性犯罪でたびたび投獄された囚人のインタヴューで、
なぜ囚人の多くは、子供の頃自分も虐待を受けていたかと疑問に思い、
幼児期の経験について語るように求めると、

その囚人は「自分が経験した恐怖や脅威を誰ともコミュニケーションできなかった事が何よりも恐ろしかった」とほのめかした。

そこで彼はあからさまに質問した。

「あなたにとってそれほどまでに恐ろしい経験をなぜ他の子供たちにしたいと思ったのでしょう?」

すると囚人は「子供の顔に浮かんだ恐怖や恐れを見ると、自分が体験した事を理解できる人間にやっと出会えたと知るからです」と答えたのです。




私の事を少し話します。
子供の頃から両親共働きで単身赴任、生後3ヶ月で他人に預けられた(とても愛情深い乳母です)
私は、”いい子でなければ愛してもらえない”と思い込んで育ってきたので、
自分の感情を自分でも感じないように表現できずに無意識に押しやって来ました。

ですから、今だに実母に対して、感情が湧きにくいです。
うまく、感情をストップさせていたみたいです。

大人になって、主人との間で“さみしい”という事を隠して感情を感じないようにしていた事に気づき、そのことを自分に許した時、こどものようにおんおん泣いてしまいました。

それに気づくまではずいぶんと、主人を責めたりコントロールしようとしたりして、
それに対して主人も私の話に耳を傾ける事を嫌がっていました。(完全モラハラでしたね)
その結果そういう自分に罪悪感を感じて疲れるーーというパターンの共依存に陥っていました。

自分のどうしようもない感情の責任を、訳が分からず、主人にとってもらおうとしていたようです。

でも、誰も人に幸せにしてもらうなんて事は出来ないんです。

自分の、恐れ、感情と出会った時、初めて

自分が自分でこの反応を作り出してきたんだーー

と分かったのです。

それを、見なければ手放せない。
同一視している限りは・・・と何度もサッチャ先生には聞いていましたが、
はっきりとは
意味が分かっていませんでした。

何度も何度もくりかえし、被害者意識的になるのはどうしてだろう?

誰も傷つけてはいないのにどうして傷つけられるのだろう?

と本気で考えていました。

この長い長い輪廻のなかで、たくさんの生命体を犠牲にして、暴力を奮い続けてきたカルマによる過去の印象(サンスカーラ)によって、さらに、ネガティブな反応を自分が引き出している仕組みが見えたのです。
ごめんなさい。もうやりたくないです。

自分で自分の事は責任とって行動したいです。



そして、私たちには安心して自分のことが語れる仲間が必要だということです。
それが、先に例に挙げた投獄された囚人が必要としていたニーズなのでしょう。

そのために、まず、自分ができること。
まず、人と繋がる前に
個人的な神との関係を築くこと。



そしたら、

永遠の魂であるアートマーのほんとうのニーズ、
喜びの中で与え続ける事が出来るんじゃないかな。

本当にこの世界は神が必要とされるように作られているんだな
とおもいます。


どんなに、ひどい状況であろうと、幸せの絶頂であろうと。
今現在、罪に服役中であろうと、罪を犯している最中であろうと。

同じ様に神は全ての生命体を愛している。
なぜ?そう言えるかは簡単です。

この世界で自分の意志で息をしてる人がたった一人でもいるでしょうか?

答えは、そんな人は、一人もいないという事です。

まあ、当たり前の事っちゃそうなんですが。

この事に、深く気づくと.ええエーーーという事になるんです。
私何もかも自分でしてたと思い込んでたけど、ビックリした!!になるんです。



意識的に呼吸をとめる事は出来たとしても、生まれた瞬間から死ぬまで、自分で呼吸を自分の意志で行っている命なんか
一つも存在しないんです。

みんなに呼吸は与えられている。
愛で。
食べ物も、太陽の光も、全ての関係も。


深く、神と関係している事を実感する。

つまり生きるヨガです。

そうすると、誰が言ったか知りませんが、毎日が祝祭です。

自分は永遠で、喜びにみちた存在だと、実感するまいにち。
毎瞬間、神から与えられた命を通して、生き続けている驚異。
毎瞬間、神とだけ関係している事。ならば、私も与えたい。お返ししたい。

そして、全生命体が、私と同じ固有のかけがえのない存在である事。


以前は、「神が愛せない人に、人は愛せない」という言葉にそんなのきれいごとだと思っていました。
隣の人が愛せないような人に、神なんか愛せる訳ないと決めてかかってた。
まず、隣の人だろ!って。
や、でもほんとは逆なんです。
最初に神を見出す必要があります。
神を愛せないと、決して隣の人は愛せない。
今は、その真意が理解できます。

簡単です。
まず隣の人から愛する方式にしたら、またその次の人も、その次。。。と終わりがないんです。
でも、神を愛したら、神を通してすべての生命と繋がります。
一発です。


神との関係を、わたしが実感を持って深めていったときに、神とつながり、
その神にわたしと同様、みんなもつながっている。
初めて全生命に対する愛と敬意を実感する事ができるんじゃないかと感じています。

ここに、やっと生きるヨガの実践があります。



それを追求していくと、自分の中の美しさとか、自然とか、素直とか喜び、感動、
または、汚いものとか、活動とか、対峙する事とか
全てに意識的になってアーティスティックな生活になってくると思います。

これはアートな暮らしだと言わざるを得ませんね。

追求していきましょう。



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”生きるヨガ”

わたしの生きるヨガは、こんなのだというのがあったら教えて下さい。



私たちひとりひとりが、そうなれたら
生きるヨガの実践者に
なれたらいいと思います。

一人一人が
この世界の
アーティストです。

たのしい!!


とっても、創造的でわくわくする事という意味でね。


最後に、私の敬愛するラーダナータスワミの言葉で締めくくりたいと思います。

まー私ってどうしても、じゃあ、きっと私のせいね、と被害者意識になることが多いんだけど。
そこで、まず立ち止まって考えたい、とても深くて素敵な言葉です。

「自分のいたらなさを嘆くのではなく、
 自分の行為に、いかに愛が足りないか!を考える。」

ただこの言葉だけを、いつも深く胸に抱いていたいと思う。
そのことを表現するアーティストになりたいです。


ヤムナ












# by govindasyamuna | 2021-07-08 08:33 | 食べるヨガ~生きるヨガ

”いのちをいただく”ことに関しての食べるヨガ的視点


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2014年に、このブログに、
”いのちをいただく”という
内田美智子さん著の絵本を読んで、思ったことを書きました。

皆さんにも是非読んでいただきたい物語です。






ざっとあらすじを言うと、

坂本さんは、食肉センターで牛を“解く”仕事をしています。息子のしのぶくんは、小学校の授業参観でおとうさんの仕事を聞かれて、「ふつうの肉屋です」とこたえました。その後、担任の先生に「おとうさんが仕事ばせんと、肉ば食べれんとぞ」といわれたしのぶくんは、「おとうさんの仕事はすごかとやね」と坂本さんにつたえます。そんなある日、坂本さんがつとめる食肉センターに、女の子と一頭の牛がやってきて……。
女の子は、家族のように可愛がっていた牛のみいちゃんが解体場に連れて行かれ、おじいさんに、『みいちゃん食べてやらんとかわいそやがな』と言われ、泣きながらみいちゃんを食べたと言うお話です。
このお話は坂本さんの実話を元にして作られたお話で、私は、坂本さんのお仕事や、牛を殺して食べることに対しての私個人の意見を述べようとは思っていません。
そのことは、私がこれから述べようとすることの中で、各自が自分で考えていく問題だと思います。


それよりも、私がここで言いたいのは、

あるブログで幼稚園の先生をしていらっしゃる方が、
食育の一環として子供たちに、このお話をして、『だから、海の向こうでは、ご飯が食べれない子供達もいるのだから、残さずに食べましょうね』と、指導しています、
という記事でした。

私はこの記事を読んで、とても、胸が痛みました。

何故かというと

私たちは、
というか
特に小さな子供たちには

”自分の行動は自分の意思で決めて良い”という自由が与えられていないのではないかと感じるからです。


自分が、お肉を食べるか食べないか、または食べたいか食べたくないかは、
とても個人的なことで自分で決められます。
私たちの自由意志が行使できる問題です。

でも、遠くで飢餓で苦しんでいる人たちを、今自分がお肉を食べることで直接救うことはできません。
それは、罪悪感に訴えて、あなたが食べるならみんなで食べるなら、感謝して食べるなら、と、お肉を食べることを正当化するために、牛を殺して食べることも許されるという共同幻想の中に縛り付けてしまう、見えない自由を奪う支配だと感じるからです。そしてそれは、共依存です。

すごく、簡単なこと、牛を食べるか食べないかの選択を、飢餓に苦しむ人たちの問題にすり替えて、罪悪感に持っていき、子供たちの自由意志を奪って良いはずはありません。
それよりも、自分のことは自分で考えて決められる、ノーと言っても、そのことで愛されることを拒否されることなく、自分の意思を堂々と伝えられる人間に育てていくことが、本当の食育だと思います。

罪悪感で支配していく教育は、他のひとのニーズばかりに気をとられて、
自分の本当のニーズがわからない人間を育ててしまいます。
そして、そのように育てられた結果、それをコントロールした他者や社会に責任を転嫁し恨み、自分は被害者となり、
自分の行動に責任を取ることができないような大人になります。(私がそうでした。)

たかが、食事の問題ですが大変奥深いお話だと思います。



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以下、食べるヨガ
三部作。




この前、これ読んでね。







この後、これ読んでね。









ヤムナでした。
























# by govindasyamuna | 2021-07-08 00:15 | 食べるヨガ~生きるヨガ

主チャイタンニャ についてのお話し 2008/3/26

今回は、2008年に中の寺院でサッチャデーヴァプラブがされた、主チャイタンニャ のお話です。
ザッと、チャイタンニャ のことがわかります。




主チャイタンニャのお話は、三つに分かれます。

マヤプールにあるナヴァドウィープは、9つの島である。それは9つの献身奉仕に対応している。
チャイタンニャは24歳までナヴァドウィープにいた。
9つの献身奉仕とは、
聞くこと、唱えること、想うこと、御足に仕えること、神像に仕えること、祈りを捧げること、
僕として仕えること、友人として仕えること、全てを捧げること、の9つです。
主チャイタンニャは偉大な学者として知られていた。
ヴィシュワンバラ(宇宙の維持者)、またはニマイパンデイット(ニームの木の下で生まれたから)と呼ばれていた。父親が亡くなって、ガヤのヴィシュヌ寺院でシュラッダセレモニー(お葬式)を、行った時に
イシュワラプーリーに出会い弟子になった。
その時、シュリークリシュナ ・チャイタンニャ という名を授かった。

入門を受けた途端に、ガラッと変わった。(唱え始めたから)

エクスタシーの兆候を表し始めた。
笑ったり、泣いたり、叫んだり、踊り狂っていた。

そして、再びマヤプールに戻った。
主チャイタンニャは皆んなから、偉大な論理学者として迎えられたが、もうすでにその時は論理学を説くことに興味を失っていた。

行列を組んで、ハリナマを行った。それを見た人は皆エクスタシーになった。
学者肌の人たちは、皆プライドが高かったので、ハリナマには参加しなかった。

そこで、主はサニアシ(放棄階級)をお取りになった。

そのあと、特に南インドを中心に、6年間旅をした。
そこで、母親にとどまるように言われたので、主はジャガンナータプーリーに留まった。(24歳から48
歳まで)。

プラヤグはブラフマンを瞑想する聖地で、クンバメーラなどがある。

その時、そこで(ジャガンナータプーリーかプラヤグかよくわからない。が、有名な話なので誰かに聞けばすぐわかると思います。ヤムナ注 笑)ルーパゴースワミーという聖者がいる(兄はサナータナゴースワミー)と聞いた。彼はその時はまだ、イスラム教の大臣だった。
あるブラーマンが主チャイタンニャ を昼食に招いた。
そこにルーパゴースワミーもいた。

主チャイタンニャ は、ルーパ・サナータナ兄弟を呼んだ。

ルーパは、「ナモーマハー ヴァダニャーナ クリシュナ プレシュターヤ ブータレ・・・」と、主チャイタンニャ に祈りを捧げた。
なぜなら、主チャイタンニャ のミッション(使命)を、見極めていたから。

クリシュナの愛を、最も偉大な与え方で配っていらっしゃるから。しかも、無料で。

    ここで、脱線   

    マントラはあなたが何を知りたいかを表す。 
    A U M は、Aがクリシュナ、Uがラーダラーニ、Mがジーヴァ(聖名隊・我々の事)    
    aum tat sat は、tatがそれ(果報的活動)、satが永遠。    
    ブラフマーは、宇宙創造の際、蓮の花のうてなの上で瞑想したあと最初の音を聞いた。   

    それが、クリシュナのフルートで、口から発せられたオーム・タット・サットだった。 
    どのように宇宙を創造したら良いかを、クリシュナ から授かった。



ヴィシュヌが、ブラフマーに宇宙創造のことを授けたのと同じように、主チャイタンニャ はルーパゴースワミーに、10日間で献身奉仕の全てを教えた。

ヴィリンダーヴァンに行きなさい、そしてクリシュナの聖地を探しなさい、と言った。
そうして、ルーパゴースワミがそこに行き、その場所を見つけた。



そこで、サッチャデーヴァプラブは、『なんで私はハレークリシュナ マントラを唱えているのだろう』
という問いに戻ってくるという。

我々も、自分の力ではなく、クリシュナの献身者によって導かれたものだ。
ルーパヌーガとはルーパゴースワミーに従うものという意味である。
献身奉仕の科学について学ぶことができる道は、これが唯一の道ではない。
しかし、神が、神であることを忘れさせるような、親密な知識はこの道をおいて他には見つからない。

それこそが、この道の醍醐味である。

そして、この道の門を開いたのが、主チャイタンニャ である。

 主クリシュナは、すべての道を捨てて私に服従せよ!と言った。
 
 主チャイタンニャは、では、どうやって身を任せるのか!を説いた。


    解放、ブラフマン、パラマートマー、バガヴァーン

    シャンカラチャーリャはブラフマンだけがすべてと説いた。

    マドヴァチャーリャ、ヴィシュヌスワミ、ラーマ ヌージャチャーリャ、
    ニンバルカの教えをすべて統合したものが(3つの側面を受け入れている)※1

    主チャイタンニャが説いた、”同時に同じで異なる”という最も高い真理
    アチンチャ・ヴェーダ・アヴェーダ・タットヴァの教えである。





    ※1 この時のクラスは、この3つの側面に関しての細かい説明はありませんでした。
       今、私たちはこの点に関しても理解しとく方が良さそうですね。
       クリシュナ・シャナランプラブに近々クラスをお願いしてみましょう。(ヤムナ談)







                     終

















# by govindasyamuna | 2020-10-03 11:57 | チャイタンニャ・チャリタームリタ

サンキルタンセミナー1999/1 ナヴィナニラダプラブー part3 part4



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サンキルタンセミナー1999/1/27 part3
by Navina Nirada Prabhu


SB1-4-11

नमन्ति यत्पादनिकेतमात्मन:
शिवायहानीय धनानि शत्रव: ।
कथं स वीर: श्रियमङ्ग दुस्त्यजां
युवैषतोत्स्रष्टुमहो सहासुभि: ॥ ११ ॥
namanti yat-pāda-niketam ātmanaḥ
śivāya hānīya dhanāni śatravaḥ
kathaṁ sa vīraḥ śriyam aṅga dustyajāṁ
yuvaiṣatotsraṣṭum aho sahāsubhiḥ
彼はとても偉大な皇帝だったので、彼のすべての敵が彼の足元にひれ伏し、全ての富を差し出した。彼は若さと力に満ちていました、そして彼は、手放すことができないほどの財を所有していました。 なぜ彼は自分の人生を含むすべてを手放したかったのですか?
SPによる解説
彼の人生には望ましくないことは何もなかった。 彼は若々しく、力と豊かさで人生を楽しむことができました。 だから、誰一人として彼がこの生活から退くとは思わなかった。 彼は非常に強力で勇敢で、敵でさえ彼のところにやって来て足元にひれ伏し、自分の恩恵のためにすべての財を放棄するので、州税を徴収するのは簡単なことだった。 マハラージ・パラクシットは敬虔な王でした。 彼は敵を征服したので、王国は繁栄に満ちていました。 十分な牛乳、穀物、金属があり、すべての川と山は力でいっぱいでした。 実質的にすべてが満足のいくものでした。 したがって、彼が王国と人生を手放したことに驚きの念を禁じられなかった。賢者たちはこのことすべてを熱心に聞いていました。



服従の6段階
1、バクティに有益なものを受け入れる
2、バクティを阻害するものを避ける
3、唯一クリシュナだけが自分を守ってくれると確信する
4、唯一クリシュナだけが自分を維持してくれると確信する
5、クリシュナの意志に従う
6、慎ましくあれ!


自分のことをクリシュナに祈っても良いのかという質問がありますが、
クリシュナに信念を持っていればいろいろ経験していって、自分を捧げることができるようになる。
物質界というこの世界では、何か良いことが起こったら、私がやったといい、
何か悪いことが起きたら、これは運命だという。


拒否する人にどうやって本を渡すか?
議論をして時間を費やす必要はない。我々は哲学者やムーニーではない。
時間がない、高い、といわれても、もっと啓発を与えるものであると確信している。
拒否するのは、こちらが充分な提示をしていないから。その人にとって、良いものに見えなかった。
NOというのは、ほとんどの場合、今ここで一体何が起こっているのかがわかっていないからだ。
間違った場所で仕えている。一般大衆を喜ばせるのではなく(喜ばない人がいても良い)
クリシュナを喜ばせる。
もしクリシュナを喜ばせるなら、世界中が満足する。
いざという時に、絶望したりしない!



効果的なコミュニケーションについて
私たちが会って話す時
会話の内容は10%
服装50%
その他外見40%


クリシュナ意識   VS    個人生活
この対抗試合は、的確にその時期にあったことをやるべきを予定を立てる。
最も重要なことのスケジュールを組んで、対立するものがないようにする。
規則正しく、社会のなかで区分され社会に適合するように活動することにより、
ある種の強さを蓄えることができる。

例えば、中級の企業(30人くらいの従業員)では、受け付けでアポなどとらずに、
ズケズケと入っていって、直接ボスに会う。
裏口から入っていく。シャープでなくてはならない。


献身者がリーダーとして、見本となる。すべての模範となること。
  • 物事を正しく判断できる
  • 徳の様式であること
  • 何が真の目的であるかを知っている
  • どのようにやるのかを知っている
プラブパーダのように!

実際に的確なリーダーになる
ラーマナンダロイ「他の献身者を見て、自分にアイデアや啓発をもらうことができる。」
布教活動は個人的なものである。何をしようと、あなたがリーダーである。
人はそういうものである。並んでいる列に並びたくなる。
充分に的確に従う人が良いリーダーである。
「信頼」は、個人的なもので、経験して感じるもの。
何が重要であるか知っている。





SB1-4-12

शिवाय लोकस्य भवाय भूतये
य उत्तमश्लोकपरायणा जना: ।
जीवन्ति नात्मार्थमसौ पराश्रयं
मुमोच निर्विद्य कुत: कलेवरम् ॥ १२ ॥
śivāya lokasya bhavāya bhūtaye
ya uttama-śloka-parāyaṇā janāḥ
jīvanti nātmārtham asau parāśrayaṁ
mumoca nirvidya kutaḥ kalevaram
人格神に仕えている人々は、他者の福祉、発展、幸福のためにのみ生きます。 彼らは利己的な利益のために生きていません。 なので、皇帝[パリークシット]は世の所有物に対するすべての執着からは自由でしたが、他の人たちの避難所であった彼の死すべき身体をどうやってあきらめることができましたか?

SPによる解説
パリークシットマハラージは、人格神の献身者であったため、理想的な王であり世帯主でした。主の献身者は自動的にすべての良い資格を得ます。そして、皇帝はこれの典型的な例でした。個人的に、彼は彼の所有物である世俗的な豊かさすべてに愛着を持っていませんでした。しかし、彼は彼の市民の全面的な福祉のために王であったので、彼はこの世だけでなく、次の人生のためにも、常に公衆の福祉の仕事で忙しかった。彼は屠殺場や牛の殺害を許可しませんでした。彼は、ある生物は保護し、別の生物を殺すことを許す愚かで部分的な管理者ではありませんでした。彼は主の献身者だったので、人、動物、植物、生きとし生けるもの、すべての人の幸福のために行政を行う方法を完全に知っていました。彼は利己的な事柄には興味がありませんでした。利己主義は、自己中心的または自己拡張的です。彼はどちらでもなかった。彼の関心は、最高の真理、神を喜ばせることだけでした。王は至高主の代表であるため、王の利益は至高主の利益と同じでなければなりません。至高主は、すべての生物が彼に従順であり、それによって幸せになることを望んでいます。したがって、国王の関心は、すべての主題を神の国に導くことです。それゆえ、市民の活動は、彼らが神の元である本当の家に戻ることができるように調整されるべきです。代表的な王の政権下では、王国は豊かさでいっぱいです。当時、人間は動物を食べる必要はありませんでした。人間も動物も贅沢にそして心ゆくまで食べることができるように、十分な食用穀物、牛乳、果物、野菜があります。すべての生物が食物と住居に満足し、規定された規則に従えば、ある生物と別の生物の間でいかなる妨害もあり得ません。 パリークシット王は立派な王であり、そのため、彼の治世中はすべてが幸せでした。



服従することに慣れていない。
献身者は服従することの喜びを知っている。
ある人は、「2000ドル寄付してこれほど気持ちの良かったこと
はない。
だからもう2000ドルあげます。」という。
まだお金をあげる、という人には、じゃああなた自身(本当の気持ち・ハート)を捧げてくださいという。

シュリーラ・プラブパーダは18日間で、全世界を手に入れる方法を知っているが、
我々が責任を持てる程度に応じて与えてくれる。
シュリーラ・プラブパーダはほとんど睡眠をとらなかった。
これを真似するのではなく、その緊急さを学ぶべきである。
緊急さに応じて周りの人人が、助けてくれる。

経済は上下逆さ。いつでもすぐ変わりうるもの。
《緊急》今、プリーチングしなくてはならない。待っていることはできない。
なぜ?シュリーラ・プラブパーダに喜んでもらえる。=地球・人類全てを助ける
いかにして?
誰が?



Q.ニタイプラブ:プラサーダをあげたり、動物を殺すのは良くないと教えるのは精神的な慈悲。外に出かけて、ハトに餌をあげるのは物質的な慈悲。どちらも、人を助けるが、片方は一時的である。しかし、もう片方は永遠である。
A:鳥に餌をあげすぎると死んでしまう。物質的な優しさとは、実は残酷なことである。なぜなら、利己的なエゴイスティックな満足感を満たしているだけだから。それを超えた、スピリチュアルな視野を持たなくてはならない。自分のやっていることに、気持ちを込めることで、印象づけることができる。配る側がいかに読むか!
強いる。自発性。やりたいか、やりたくないか?本当の友達とは、友達のことを気遣ってあげる。この世にはなにがしかのプレッシャーが存在する。どういう風に押すか?ほほえんで、にこやかに押さなければならない。
愉快、積極的、楽しさ、で本を配る。どこまで、プッシュすると痛いかを知る。2〜3度。この人は信頼できる人だ。この人は聖なる人だ横。

自分が主役になる。自分の人生を生きる。これが、シュリーラ・プラブパーダのされたこと。シュリーラ・プラブパーダのせいこうは、物質的な成功だけではなく、人を助けるという精神的な成功だった。
他人に奉仕を配るのが最も大きな喜びを感じる。
これが自分の本来の面目
「クリシュナに仕える。他の全てのものに仕える。」
本を配ると、①社会が幸せになる。②クリシュナが喜ぶ。
クラスを聴くそして、覚える。本を読む。この二つが大事。
1ヶ月に1回、プリーチング、本配りの話をする。熱意を新たにする。
今日は本を配ったか?と書いて冷蔵庫にでも貼っておく。

秘訣は、2〜3年かけてサンキルタンの技を学ぶ覚悟がありますか?
サンキルタンをする。技がいる。人の中に入る。話をする。人の内を変える。人生を変える。
本当にやりたいのか?
真剣さ。代価を払う。誠実さというものなどが、大変な額になる。
ただ配る。自分の技を使って、貢献することが大事。ジョージ・ハリソンのように。


成功の鍵は、自分です。

自分を見つめる。そこに満足してプリーチングに貢献する。
自分の足元に満足する。

決してやめない。
やり続ける。



以上

オシマーイ

















# by govindasyamuna | 2020-09-10 21:13 | バガヴァッド・ギーター他・法話
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ヨガってアサナだけじゃない、食事、瞑想、哲学、音楽を通してバクティヨガを日々の生活に取り入れましょう。生きる力を感じて内面はエキサイトして、外見はクールに生きるお手伝をします。


by govindasyamuna
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