ずいぶんお待たせいたしました。やっと昨年11月23日にBYCなかのにて、開催された
バヌスワミのレクチャーを全て文字おこしする事ができました。
文字数が多すぎたので前・後半に分けました。後半は質問コーナーです。
是非お読みになって下さい。
以下です。
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2013/11/23 バヌスワミ 「人はなぜ愛するのか?」
人間の目標と満足
人間の生きる目的について話したいと思います。それぞれみなさん自分なりの人生の目標というものがあるかと思います。でも、よくよく見てみるとみんな似たようなものを追い求めて生きているんじゃないでしょうか?その何かを目標にすることによって、みんな幸せを求めています。
世界中のあらゆる人たちをインタビューして、どのような望みを持っているのかを研究した結果があります。そうすると15項目くらいになります。まず、肉体的に生きていくために必要なこと。みんな何かを知りたがるという傾向がある。動物でさえある程度、好奇心というものを持っている。でも、人間のほうが探究心とか好奇心とかは強い。なぜかというと、より知性が発達しているからです。でも現代の教育では、そこに問題があります。
問題というのは教育によって、私たちの興味がどんなものに向かっていくのかを方向付けられてしまうからです。ですから、教育によって、我々が自然に自発的に知りたいという探究心を阻害してしまうことになるからです。ですから、いつか子供というのは現代の教育を嫌がるようになるわけです。だから、学校に行かなくなる。実際、知りたいというのは人間にとっての自然な性です。好奇心を刺激するような教育を施せば、子供は簡単に学んでいくことが出来ます。生きていく上での必要なものに関連したことを満たしていく好奇心というものが自然に湧いてきます。
また人間は体を動かしたい。ですからエクソサイズや運動を行うわけです。それは動物にも見られる傾向です。でも、こういう傾向も現代のライフスタイルによってで抑圧されています。もう20年間学校で椅子に座りっぱなしである。最初に20年間学校の椅子に座る。卒業すると、残りの30年間はオフィスの事務所の椅子に座り続ける、と。それらの抑圧というのも他の人間の身体的欲求の抑圧になります。またそうすると病気にもなります。
みんなが食べます。植物も、動物も、人間ももちろん食べます。生き続けるためには
体に栄養が必要ですから、食べ続けます。これは動物にも見られます。でも、人間は食べる傾向を他の角度からも求めます。人間は生存のためにのみ搾取するのではなく、喜びのために食べる。それは、舌=味を楽しむですね。舌を満たしたい,もう一つはお腹を満たしたい、その二つです。ですから、世界中を見渡してみれば凄いバラエティにあふれた食べ物があるわけです。舌にはおいしい食べ物でも、その結果として健康をがいすることもある。洗練された文化の人々は、食べ過ぎるという傾向がある、そして食べ過ぎた結果もっと病気になります。
もう一つのニーズは歌舞伎町です。そのセックスも喜びであるわけですが、そこでもまた人間は人口密度をコントロールしなければならない。食べ物と同じように、性生活においても他のことをコントロールしなければ行けないことがあります。人間が生きていく上で生存競争による反動というものがあります。動物も自己防衛をする。動物も生存のために争いあって自己防衛をするわけですが、そのための行為をしたあとというのは全て過去を忘れます。でも人間はひとたび争いになると報復のためにされたことを忘れずに一生引きずる。もしかしたら、何度も生まれ変わっても許せないこともあるし、家族間同士、何世代にも渡って鍔競合いを続けるというケースもあるでしょう。国家レベルでも何百年も対立を続けるということもある。もともとの生存していくために必要なものを満たそうという欲求のために、いろんな危険を作り出している。
これもまた、消極的な面ですが人間にも痛みを避けるという面があります。これもまた、生存に関わるものです。その痛みというのは、体を傷つけるということに関連していて
そしてその体が傷つくということで、生存が脅かされるということになるわけです。
誰もが、人に応じてある程度の人生において組織に帰属するという欲求があります。私たちのゴールを達成するために組織化するということも必要となってきます。
また、人間たちはそれを満たすために極端な方向に走ってしまう。組織なんですが、それを誰か一人のものとして動かされてしまう。そういう状況にいると組織の中にいる人たちは非常に居心地が悪い。痛みすら感じてしまう。
いま,帰属の欲求と反対の欲求がある。独立・自立心の欲求です。誰かがあなたを取り込もうとしたら、あなたが独立的に何か自分で好きなことをしたい時に、他の人があなたを取り込もうとしたらそれを拒否するわけです。これは、個人レベル、社会レベル、国家レベルと拡張していって同じようになるわけです。
次は、積極的なサイドに見られるものですが、つながりを持とうとする。これももちろん、起源は生存の欲求に関わるものです。これはもう古代から見られたものです。なんらかのグループを作って、村をつくる。そのグループを構成する上では心理的舐な面というのを大切にする必要があります。と同時に個々の個別性というものを尊重する必要があります。 そして、もう一つの社会性というものに家族があります。動物たちもそれぞれ家族があります。動物は何ヶ月単位で親のことを忘れて独立し手バラバラになります。しかし、人間はほぼ一生家族と何らかの関わりを持っています。それは、非常に強い欲求であります。子供が育っていく環境で、家族がうまくいっていない環境で育つと子供の成長に非常に問題を起こすわけです。そしてその問題を抱えたこどもが大人になって結婚すると、そこで生まれた子供というのはまた問題を抱えて大人になってしまう、そしてそれが続いていく。ですから、家族の中で個々の家族の一員たちがみんな幸せに家庭生活を送るというのが非常に重要になってくるのです。それによって個々の家族のメンバーが個人レベルでも幸せになって、そして社会全体が幸せになるわけです。でも、しかしこの家族への愛着が強すぎるとそれも問題になります。すごくいい家族で、家族の絆がものすごく強いという家族、そういう家族が死ぬとそれが痛みとなって、残りの人生非常に苦しむことになります。
次のまた15のうちの別のゴール、それは社会貢献です。これもまた抑圧されている状況ではないでしょうか?というのは、自分の生活でいっぱいいっぱいではないでしょうか?時間がない、自分の生活や自分の家族のために使う時間だけで、もう奉仕をする時間がない。昔の生活でしたら、誰もが社会に貢献することを強いられていた。あるコミュニティでは、誰かが家を建てる時にはみんなが協力しなければいけなかった。
次は影響力です。誰もがそれなりに影響力を与えたいと思っている。その、みんながその影響力を発揮したいと思っている、その結果そこに軋轢が起こっている。あるグループから村八分にされるのを非常に恐れる。これはものすごく強い。これは、さっきの個別性、独立性を満たすというものでは逆になります。みんなが、影響力を持ちたい。またみんなが尊敬されたい。日本の社会というのはみんな他の人に敬意を払うのが強い社会です。しかし、ある社会ではあまり他の人々に敬意を表さない。ですからそのような社会は不安定な社会といえる。
道徳性、誰もが正しいことをしようと求めている。その正しさというものを求めている。
しかしながら正しさというのはグループによって違う。ですから、そのグループグループで正しさの価値観が違うので、道徳性というのも二元的なものとなってくる。ですから、本当の道徳性というのは、普遍的な原理原則に基づいている。
で、これが、誰もが持っているある程度必要な15の傾向であるわけです。またこれがあるためにいろんな人と人の間に軋轢があったりするわけです。ですから、その社会人として生きていく上では、その辺をうまく妥協したりしなければならないわけです。
15をもう少し簡潔にすると、真ん中に自分がいて、体の維持のために6つある。お金、労働、休養、健康、所有、教育です。
これらのものによって、この物質世界を維持しています。
こう言う社会的な肉体的な次元のものと、もう一つ違ったこれらのレベルよりもうすこし高い段階のメンタル(心)なレベルのニーズというものがあります。これは、関係に関わるものです。関係を持とうとするのは、もちろん肉体次元の生存の欲求のためでもあるのですが、それ以上の心理的な面の欲求も満たします。まずひとつの関係は、社会との関係。そして友人、親子関係、夫婦関係など、このようにして、私たちは様々な人間関係を必要としています。誰もが幸せになるためにこの肉体を使って、心の必要を満たそうとしています。そういう必要があるわけでが、ここで一つ問題があるわけです。この肉体というのは変化してやがて滅びてしまう。また、そのある立場・地位を手に入れる、それもなくなってしまうかもしれませんし、または家を手に入れる。それも壊れて無くなってしまう。ですから、肉体に関わるものを維持するには継続的な努力が必要になってくる。これを、その肉体の必要を継続的に維持するにはまず20年間学校に通い、そのあと30年間毎日8時間働かなくてはならない。私たちは学校は嫌いだし、会社も嫌いなわけです。非常にストレスのたまる人間たちなわけです。これらの問題というのはそれぞれが同じようなニーズを満たすために日夜争いあっています。一生懸命働いて何かを簡単にしようとしている。お気軽な人生を生きるために必死に働いている。
それが肉体的な維持に関わるものです。次はメンタル、心の問題に関わるものです。心はいつも不安定です。いつもアップダウン。あっちいったり、こっちいったりしている。そして、みんなが同じような心のニーズを満たそうとしている。心的な欲求、自分の必要を満たすために関係を必要としているわけです。みんながみんな、その関係を自分の思い通りに関係を満たそうとしてみんなが競い合っている。それは怒りに導かれる。その関係によって、私たちは、怒りそして恐れというものに至ります。あるいは、その人間関係によって嘆きます。または、その関係が満たされなかったら攻撃する。
そのようにして、肉体的なニーズも心的なニーズも満たすのに非常に大変だという事が分かります。
そうして、何のために生きたらいいのか、どうして生きたらいいのかに困惑します。
どういうわけか、私たちの文明が進歩すればするほどわたしたちの嘆きとか苦しみは増えていっているわけです。ここで最初の問いがあるわけです。「私たちは幸せになりたい。なのに苦しみが増えていっているのはなぜなのか?」私達は個人的なレベルでも、国家的なレベルでも、国際的なレベルでも、水とか石油とかで競い合って、国家的レベルで対立しているわけです。生存競争によって国際レベルで経済的な崩壊に至っている。また食料危機もそうです。ある人は日々の糧もない、しかし一方である人は食べ物を蓄え過ぎている。環境問題もあります。空気、水など様々なものが環境汚染によって、私達の生活が聞きを迎えている。社会的危機、政治的危機もある。ある国が戦争をおこしてそれによって他の国が対抗している。なんでそういう事になるのか?みんなが必要を満たされていないという事、肉体的なレベルの必要さえ満たされていない。そして、戦争に至るわけです。このような、食料、経済、環境、政治的危機によって戦争になるわけです。これらの問題に全部終止符を打たなければなりません。なぜなら、人間は幸せを求めているからです。ではどうやって出来るでしょうか?
これらの、今我々が従って生きている公式に問題があります。欠落しているものがあります。何か?それは何が欠けているのか?
それは、私達はいつも体と心に関するものだけに夢中になっているという事です。
”魂”に意識を向けるという事が欠けているのです。
私達は体と心に関するものだけで、幸せになろうとしているのです。目に見える肉体と、目に見えない心を満たそうとしているにすぎない。私達にとって、最も重要な部分を忘れている、魂についてです。その本来の自分ですらないものだけに、意識がすべて注がれてしまっているから。魂は非常にポジティブな質を身につけている。魂というのは本来永遠なる知識を身につけている。
最初に話しましたが、みんな何かを知りたがっている。何を知りたがっているのかと言うと、自分のこと、つまり魂の事を知りたがっている。何かを知ろう、知識を得ようとしているが本当はもともと私達は知識を持っている。魂というのは、永遠に躍動的・活動的です。私達は、肉体や心を使って家族関係とか、社会福祉とか、健康を維持したりして、いろんな事をしているわけですが、本当にそのことを行っているのは実際は魂なんです。
そして、魂というのは永遠なる喜びを、兼ね備えている。魂がその、本当の完成を遂げる事が出来るわけです。体や心を満たしても、私達の目標を遂げる事は出来ません。魂をぬいて肉体レベルで幸せになろうとするとうまくいかないわけですが、自分もみんなも同じ魂として関係をとろうとすれば、友人であろうが、夫婦であろうが、親子であろうが、どんな関係でもうまくいきます。魂というのは個別の存在ではあるんですが自己中心的ではありません。魂には、肉体的な必要もも心理的な必要もありません。それでも、一つ問題があります。というのは魂レベルでいろんな人間関係を満たそうとしても、肉体というのはやがて終わってしまうわけです。ですから、関係というのが終わってしまうわけです。一時的な関係であるわけです。
魂が持つ永遠の関係というのがあります。魂にとって自然な関係というのは、まず至高なる魂との関係というのがあります。これは、永遠な関係です。肉体的なものではありません。これこそが問題の解決法であるわけです。私達は至高なる魂と永遠なる関係を築く事が出来ます。
その対象というのは、完璧な美しさ、完璧な質を備えています。そして、あなたがした事に完璧に応えてくれます。完璧に振る舞ってくれる。その品減が必要としている関係を、神が全てを満たしてくれる。至高主でありながら友人にもなってくれる。至高主でありながら子供のようにも振る舞ってくれる。あなたは神と恋人になる事も出来ます。このようにして、また神を主として崇める事も出来る。
神と縦の関係を持って、畏敬の念で崇める事も出来るし、また、そういう縦の関係ではなくて対等な関係で、友人関係を築く事も出来る。そして、私達が神の父親・母親として親子関係も築くことができる。神が子供として私たちを親として受け入れる。
そして神は、恋人として友人関係も受け入れてくれる。
これらの5つの関係を、築くためにはそれなりのメソッドが必要です。
神とそれらの関係を築くための方法をバクティヨーガといいます。バクティという意味は愛と献身という意味です。そのバクティによって、魂と至高者の至高なる関係を築く事が出来ます。これを、築くために様々な感覚を使う事が出来ます。
まず、耳を使う事が出来る。神について、聞く事が出来ます。また、神の姿を見る事が出来ます。神の姿を讃える事で、声を使う事が出来ます。主に捧げたお香の香をかぐ事が出来ます。そして、神に捧げた食べ物のお下がり(プラサーダムといいます)をいただいて味わうことが出来ます。また、神の喜びのために体を使っておどる事が出来ます。それらのこういう事を行う事によって、神との愛の関係を築いていく事が出来ます。
また、神を瞑想する事によって、マインドを使う事が出来ます。それら方法の、最も主要な方法が、神の御名を唱えるキルタンという方法です。主チャイタンニャが500年前に降誕されました。このサンキルタンというみんなで集まって神の名前を唱えて踊る、唄うというそういう方法をこの地上にもたらしました。そういう方法によって、神との関係を築いていく事が出来る。そのようにして、神との関係に於いて神との永遠なる関係を築く事にとって、私達が今必要としているすべての必要を満たす事が出来る。また、そのバクティを実践する事によって、肉体的なニーズ、心理的なニーズ、一生生きていく上での必要な全てのニーズが満たされます。