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バヌスワミの忙しい人のためのギータークラス抜粋

今日は2001年に、東京中野テンプルで行われた

バヌスワミの『働く人(忙しい人のため)のバガヴァッドギーター』クラスセミナーの

抜粋をお届けしますね。




BG for worker (BANU SWAMI) 2001/2/19 4日目


インドの5000年前の経典の
バガヴァッドギータ—の第2章 では、

繰り返し『 我々の本質は 物質= 一時的なものではなく
             精神 = 永遠のもの 』 
            と述べられている

     体に基づいて原則をたてるのではなく
     に基づいて原則をたてる

すると、お金・仕事・娯楽・友人といった

    『一時的なものに惑わされなくなる』

そして、『永遠の原理』に基づいた原則で生きるようになる

魂の質についてのヴェーダの記述
NITYAニッチャ   永遠である 始まり終わりがない
AVIKARYAアビカリャ      変化しない 不変である
AVYAKTA アビャクタ      見えない
ANU  アヌ        非常に小さい 神に頼っている
ACINTYAアチンチャ      とらえがたい 
    その影響力を意識という形で身体全体に及ぼす事が出来る
BHINNA ビンナ    分かれている 個別のものである
AHAN・ ARTHA アハン       自己感 
                   自分が存在するという感覚を個々の魂が持っている
SVARUPA・BHRK スバルーパ   姿がある
JNATA  ギャタ     認識できる
KARTA カルタ      行為者である
BHOKTA  ボクタ       享楽者である
ANSA    アムサ     神に似ている 質が似ている 部分体 
                                    etc.



ジーヴァ(個別の魂)はどう動くべきか?

すべての魂が,一点を中心に動くと統一性ができる 
        
ハーモニーが存在する 軋轢が生じない


自分のために行動するという 方向性を変える

それを実現させるために、『 愛 』を行動の原則にする

  
  自分の方向に皆が引き寄せようとするので 緊張が生じる
        行動のもととなる指針(方向性)を変える

愛の原理に基づくとジーヴァ(個々の生命体)がすべて満たされる
    
博愛主義的活動もよいが対象が一時的であるので真の満足はない


 真の対象は物質的なものではなくて精神的(永遠)なもの=つまり神である


神を否定する                   神を受け入れる
           
物質の体を受け入れる          魂を自己と見なす
偽の自我(私は体だ)=アハンカーラ    私は神の召使いである(全体の一部)
欲望                  神に喜んでもらうという欲
活動                  活動は常に神への奉仕
反動(カルマ)の苦しみ・喜びにあう    反動(カルマ)がない 
                      真に満たされる
                      最も高い喜び(アーナンダ)がある

クリシュナ(神)は64の質を持つ※1
ジーヴァ(個々の生命体)は50の質を持つ

 
アートマー(魂)に備わっている良い質

謙虚さ・誠実さ・憐れみ・忍耐心・決意・親密さ・
美しさ・力・協調性・知性・智慧 etc.




最も中心になる質は!!
  『神に対する服従』自分の利益をいっさい求めず、至高なる人のために
           活動すること=愛を選択する事


   
 人それぞれ全てが個別の存在なので、
 外から強制されるものではない。
 一人一人自分で,形作らねばならない。
 それは内(アートマー=魂)から出てくるもの
 一人一人が,自分の生きるゴールをしっかり定め、
 どういう方法があるかを、
 しっかり見極めなくてはならない。



最終的に目指すところは人格です。

神について知る

魂について知る ことが難しい時代なので、信じる人が少ない

教典がひとつの証拠ですが、信念が必要です。または実践している人の証言が必要。

現代文明だけが、魂の存在を受け入れていない。
間接的な証拠はある・・・・ex.前世を覚えている子どもの例・臨死体験など

〈共通点〉   
身体から出る→自分の横たわっている姿を見る
トンネルの中→すい上げられる→出口は光に満ちている

距離は想念に関係ない
空間的、時間的移動が可能・・・・過去にも未来にもいける






※1「なぜクリシュナと呼ぶのか?」

バクティヨガでは関係性が最も重要だからです。
一般に”神”という概念は、創造者、維持者、供給者,守り主などで考えられ畏敬の念で接するものとされています。これは,ヴェーダで言うヴィシュヌ,他ではアラーやエホバの持つ性質に含まれます。
しかし、”社長”もプライベートでは、妻からは”ダーリン”と呼ばれたり,孫からは”じいじ”と呼ばれ、もっと親密で甘い関係を持つ機会があるでしょう。私たちの,この親密さも神から与えられています。
 また,太陽も、サン,スーリャ、など関係によって様々な名前を持ちます。
 しかし,太陽の実態は一つで同じものを指し示しています。
これと同じように、全ての源の神は一つですが、関係によって様々に呼ばれるのです。
もっと言えば,その人がどんな関係を育みたいかで、”呼び方”は変わりますし、呼ぶ人が選べます。

クリシュナとは”誰もが惹き付けられる最も魅力をそなえたお方”という意味の神の名前です。

ヴィシュヌは60の性質がありますが、クリシュナにはさらに4つ加えられた64の性質があります。

最も開花した状態の関係性(満月にもたとえられます)をクリシュナという
と覚えておけば、これだけが本物だというセクト的な独善に陥らずにすむでしょう。

 最も重要なのは個人個人が、愛をこめて呼べる名前(関係性)を探すという事でしょうか。

# by govindasyamuna | 2013-02-05 10:08 | バガヴァッド・ギーター他・法話

『重力ピエロ』を観て〜暴力とsexについて考えました〜


1年前に、うちでゆっこと森淳一監督の『重力ピエロ』という映画を見ました。

読後感というか、観後感つまり見終わったときのあまりの爽快さに驚き、
どうしてこんなにすっきりしたのかと、
次の日は一日そのことを考えてました。

ご覧になった方はご存知だと思いますが、
最後は、自分の実父に当たる男を、主人公が放火した火の中で、すさまじくバットで殴って殺すという内容でした。
(普通、私は、バイオレンス映画は全く見ません。嫌いだから。)
そして警察に自首することもなく、元の生活を続けているという、ちょっと聞くとありえない話なのですが。

暴力とセックスの話なんだか?いや違う。
仲のいい家族の美しい話なんだか、いやそれでもない。
社会派の話なんか?いや、全然誰も法によって裁かれてはいない。

なんか、すっきりした。
誤解を恐れずに言うなら、主人公が男を殴り殺してすっきりした。

なぜか?
その映画は、ただ、私の中にある、暴力やセックスに対する、私のきわめて個人的な感情、それもネガティブな嫌悪感をみごとに昇華してくれていたからだ。

この世界には、本当の悪も善もないんだな〜とわかった。
全て自分の心が作り出している二元相対によって、自分で罪悪感を作り出して苦しんでいる。
私の悪に対する、自分のネガティブエネルギーが、あっ、それは私の思いが作ってるんだ、と気づいたんです。

暴力・セックスはずっとそこにあるのだが、それと私の間にある、
何とも言えない自分の感情が生み出した世界、
自分が抱いているいや〜なイメージ
すべて社会通念 によって自分が作り出した
暴力、セックスはいけないことという思い込み。
それらををみごとに、浄化してくれた。

間違えないでほしい、私は暴力を奨励しているんじゃない。
この映画の成功しているところは、そこなのだ。
だから、こうこうで、暴力は時と場合によっては使っても良いんだとか言う結論じゃない。
そんな、短絡的な話じゃないよね。


そこには、反応する自己へのさらに、それを自覚しているという意識が欠けている。
私たちは、つねに自分の主体的な反応をしていると思い込んでいるだけで、実は育った環境や親からの刷り込みによってもっと言えば俗的な通念の思い込みの影響下で反応しているに過ぎないんだ。

徹底的に、自己を自覚することですべての反応は、100%自分が作り出していることを認識したら、
ついには、私たちはより良い選択をしたくなるという自由意志を行使するしか無くなる。



全ての映画、物語は、常に、ここであって、ここではない何かを語らなくてはならない。
私たちは、そこにながれるエッセンスを汲み取らなければならない。
それが、作リ手と見る側の、会話の成立という醍醐味なのだ。会話をしなくてはならない。

5000年前にかかれた、バガヴァッドギーターという聖典を思い出します。
戦士アルジュナは敵方に、自分の従兄弟や親戚、先生などがいることを見て、戦えないと言って座り込んでしまった。
そこで、至上主として讃えられているクリシュナは、アルジュナに向かって、皆、永遠の魂なのだから、戦えという。
どちらにせよ、お前は物質自然の影響によってつき動かされ、自分の性質に応じた活動をすることになっているのだ、と。
では、バガヴァッドギーターは、戦争を認めているという読み方をする人もいるかもしれない。
そうではなくて、それは、私たちは誰も皆、この変わりゆく世界の中で、自分を身体だと思い込んで『自己同一視』しているよ。
そうではなく、自分と身体は別物なんだ、私は、永遠の魂で、感覚や、心,思考が移り変わっては去っていくのをただ観ている人なんだ、と教えてくれている。

ただひたすら、私の中にある、自分で何回も反応することで培ってきた、暴力とセックスに対する“印象”(過去のサンスカーラといいます)が、自分が反応して作り上げてただけなんだと、自覚できたことで、消えていったのだ。

自分が身体であるというサンスカーラによる、自己同一視から目覚めるためには、
まず本当の自分が、ただ観ている人であり、それは大いなる存在=命の源に生かされている
ことを知ることから始まる。

いままで、自分の足枷となっていた、罪悪感、おも〜〜い荷物が外れたんだ。なんと、自分が自分で足枷をはめていたんだ!!!

たしかに暴力はよくない。よくない。ただ、それだけでいい。
でも、そこにネガティブな感情はいらない。罪悪感はいらない!!
あったら、しょうがないね、で終わり。でも、そこにも、ここにもあるんだから。
今後も、決して無くなるものじゃないんだから。

爽やかに言おう!
私は、暴力と、愛の無いセックスは嫌いよ、と。

# by govindasyamuna | 2013-01-30 10:58 | ヤムナのある日のブログ

マドゥのギーター解説 『弱さをみとめる』質問

『弱さを認める』ことについて

質問がありました。

自分がこうでありたいってとこ、マドゥーさんがおっしゃるように、自分のつまらないプライドで、ついつい気がついたらみせかけちゃってるんですよね・・ これは取り返しがつかないこと・・ ウソですよね・・ 一番いけないこと    事実をありのまま、なぜそれができないのでしょうか・・  弱いですよね。  頭の痛い自分がいます。  


シェアありがとう!

何故できないのか?

それは「恐れ」です。

弱さを見せるとバカにされるとか、批判されることを恐れていたりするのです。
真我(アートマー)には恐れは存在しません。

偽自我が恐れるのです。

偽自我とは脳が造り出す錯覚でマインドのなかの妄想を自分自身だと思い込むことです。

その偽物の自我は真我をそそのかし何かを失ってしまうんではないかと恐れさせるのです。

弱みを見せたら誰かに負けてしまうぞ!

そうやって恐れさせ愛を追い出してしまう。

しかし勇気をもって弱さを告白できれば偽自我から解放されアートマーを自覚したときパラマートマーから与えられる神の愛が恐れを閉め出してくれるのです」
だから「心の平安」に満たされるのです。


マドゥ。

# by govindasyamuna | 2013-01-29 23:05 | バガヴァッド・ギーター他・法話

マドゥのギーター解説 『弱さをみとめる』続き

  もう少し「弱さを認める」ことについて
     考えてみたいと思います。




「弱さを認める」ことで与えられるもうひつ恵みがあります。それは「心の平安」です。


「弱さを認める」というのは自分を受け入れることなので「自分を見せかける」必要がなくなるので
、肩の荷がおりるのです。


でも「弱さを認める」ことができないと
強く見せかけようとしたり、弱さを隠そうとしなければならないのでいつも不安です。

そしてもっと見せかければ見せかけるほど、もっと不安と恐れが増していくのです。


またそこで問題なのは普段からいつも見せかけてると 見せかけのエキスパート になってしまい
自分でも違和感を感じれなくなってしまう。

ひとは慣れると自分が感じていることが感じれなくなってしまって、これが厄介なんです!。。

弱さを認めるどころではなくなってしまう。。

また、その慣れによって無意識レベルでの不安、恐れによっていつも緊張し
脳にストレスを与えるので身体にも良くありません。

一方、弱さを認めることができるとホッとして
清々しい気持ちになれるんです。

警戒心が解けて 心がオープン になっていき、喜びを感じれるようになる。

傾向として女性より男性のほうが弱さを認めるのが難しいようです。

やはり男のプライドが邪魔するんでしょうね!

良く解ります。

「神に頼るなんて弱いヤツのすることだろぉ!」
「俺は自分を信じ、自分の力で生きていくぜ!」

なんて声が聞こえてきそうです。

皆さんはどうでしょう?

「弱さを認める」ことできるでしょうか?

しかも公然と!


つづく

マドゥ。

# by govindasyamuna | 2013-01-29 17:24 | バガヴァッド・ギーター他・法話

おまけ ギーターにおける様々なヨガのプロセスに関して


VEDAはSambandha.abhideya.prayojanaっという3つの側面から構成されている。
関係、プロセス、ゴール、
まず神との関係を理解すること
ISVARA-JIVA-PRAKRITI
至上支配者ー生命体ー物質自然

神と自分の関係を理解していく中で、
本当の自分と自分でないものが理解できる。

そこから初めて本当の自分のニーズに応えていく人生が始まる。

本当の喜び、本当の幸せ、

神を人生の目的と定める(ブッディヨ—ガ)

人は神との関係を様々に観る

供給者としてのみ神と関わる(カルマヨーガ)
経験哲学によって自分の中に神の質を見いだす(ギャーナヨーガ)
宇宙の秩序と命の源から与えられる永遠の意識を知覚する(アシュタンガヨーガ)
すべての源である神に無償の愛を捧げることで神の姿と性質と活動にこの上ない魅力と喜びを体験する(バクティヨーガ)

わたしに身を委ねる程度に応じて私は報いる
全ての生物は,あらゆる方角から私への道を進んでいる
BG4-11

バがヴァットギータでは、このような様々なヨーガのプロセスが説明されている。

# by govindasyamuna | 2013-01-24 14:01 | バガヴァッド・ギーター他・法話
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ヨガってアサナだけじゃない、食事、瞑想、哲学、音楽を通してバクティヨガを日々の生活に取り入れましょう。生きる力を感じて内面はエキサイトして、外見はクールに生きるお手伝をします。


by govindasyamuna
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